Himakiji ※海外からログインできません。 ログイン
小説 konann

  1

 普段足を運ばない街のどうやら中心地にあるらしい目的地に向かう途中、ちょっと自分の生活圏から出るだけで物凄い数の外国人とすれ違うんだなと感心した。
 オレはいつのまにか二十三歳というそこそこに立派な年齢の人間ではあったが、悲しいことに未だ無職で、このように世間のことにもまったく疎いということから、日々の生活の中で自分自身が潰されそうな思いをめぐらせたことはないし、そういうことだから特に焦る事もしない。オレが狙うのは、常に無欲の勝利でありたい。
 そうは言っても、やはり社会の中で生きている以上、オレは働いて金を稼がなければいけない。当然のことだが、金は使えばなくなる。
 先月末、夜間勤務の時にうっかり居眠りしたせいで警備員のアルバイトをクビになってしまったので、先週の賢いオレは携帯を使ってとりあえず短期のアルバイトを探した。
 これまでオレは、近所のスーパーや駅に置いてある情報誌でアルバイトを探していたのだが、この機会にとアルバイト求人のアプリをインストールしてみた。まず必要な情報を入力して、認証コードの記載されたメールが届くのでそれを暗記してから打ち込む。この上なく面倒だったが、一時のつまらない怠惰に行動を制限されるのは素人の証拠だ。
 アプリのキャッチコピーは『豊富な検索機能であなたに合ったアルバイトが見つかる!』というものだったが、文句さえ言わなければ仕事なんていくらでもある。
 そもそも、アドバイスなんてオレは求めてない。オレはとにかく最寄り駅から電車一本で行けそうな職場を選択し、片っ端から応募をかけた。
 その戦果といえばひどいもので、何十件と応募したうちで受かったのは数えるほどだったが、明らかに怪しい、趣旨のまったく分からない職場からの採用連絡が何件もメールボックスに届いていたときは、馬鹿馬鹿しさのあまり失笑してしまった。
 その辺に転がっている馬鹿な若者とは違って、オレは給料で仕事を探していない。断りの電話でくそくらえと言ってしまえれば最高に愉快だったが、こう見えてもオレは決断と判断においては保守的な人間なので断念。
 そんなオレが最終的に選んだアルバイトはというと、よくわからないイベントの運搬設営みたいなやつで、未経験OKとあれば遠慮なしに人に迷惑をかけることができるというのもオレには都合の良い条件だった。
 その会場といえばなかなかのもので、東京国際展示場、東京ビッグサイトとも呼ばれるその建物は、複数の透明なガラス製のピラミッドを逆さにひっくり返したようなデザインをしているが、オレはこういうガラス張りの近代的なデザインには苦手意識を持っている。羽田空港第二ターミナルも、ブルジュ・ハリファも、シンガポールのうんざりするほどに眩しい街並みも、すべて建築家が自分の美的センスをひけらかすために作られているような気がする。
 オレが愛するのは出生地でもある京都の街並みで、ことに下京区なんかは俺の住みたい街ランキングで一位だ。つまりオレはデザインにおいても保守派なわけだが、人生のデザイン、つまりライフプランにおいては土地形成に失敗しているので難しい。オレは肝心なところでいつも失敗する、笑えないほど迂闊な二十三歳の男だ。

  2

 迂闊で思い出したので、東京タワーの話をしよう。
 東京に行ったことがない人間にとって、東京タワーはできれば訪れておきたい有力な観光地という認識があるようだが、あくまでその役割は電波塔である。東京タワーのてっぺんは巨大な針のような形状をしていて、この建物を横に倒してしまえば、それはもはやミサイル兵器のように見えるんじゃないかとオレは思っている。
 そんな東京タワーを支える四つの塔脚の一つ、一号塔脚から目と鼻の先に『南極観測ではたらいたカラフト犬の記念像』という銅像が建てられているということを知っている観光客は意外と少ない。この『南極観測ではたらいたカラフト犬の記念像』は、東京タワーが完成したのと同じ年の昭和三十三年(西暦で言うと一九五八年だ。最近の若者にはいちいち西暦で言わないとわからないのが多い、と以前働いていたアルバイト先の先輩が言っていたのを聞いて、事実邦歴と西暦をいまいち同一視できていなかったオレは自分の学のなさに改めて落胆した)、地質調査や観測のために南極へと向かった第二次南極地域観測隊は、連日の悪天候により調査船を接岸させることができなかった。そのため、観測隊一同は越冬を断念して航路を引き返したが、一方の南極では、鎖に繋がれた十五頭のカラフト犬たちは、二度と戻ってくることのない第二次南極地域観測隊の帰りを待ち続けたという。そして翌年の昭和三十四年、第三次南極地域観測隊が南極に上陸した際、カラフト犬の総数十五頭のうち七頭が餓死しており、六頭は行方不明になっていたが、残りの二頭が生存しているのが確認された。あの有名なカラフト犬、タロとジロだ。
 そして同年、財団法人日本動物愛護協会によって、当時ホットスポットであった東京タワーのふもとに十五頭のカラフト犬の記念像が建てられた。それから六十六年の月日が流れた現在も、その記念像は綺麗な状態に保存されている。
 南極という極寒の大地で、互いに励まし合っているような、そしてどこか心細いような表情をした十五頭のカラフト犬を見るたびに、オレはなんだかあたたかい気持ちになる。だからオレは、東京タワーの近くに来ると、この『南極観測ではたらいたカラフト犬の記念像』を見るためだけに東京タワーに立ち寄るのだ。写真を撮るわけでも、その後東京タワーに行くわけでもないのだが、とにかく立ち寄る。我ながら迂闊な行動だと思うが、誰も笑わないのが笑えない。
 そして今日という今日も、オレは朝イチで十五頭のカラフト犬を見てから、ゆりかもめに乗ってお台場へと向かった。早朝のためか電車の中はガラガラで、オレの中ではかなり久しぶりに優先席以外の席に座ることができた。こういう、ひとつひとつの小さな幸せが一日の充足感に大きく貢献していることをオレは知っているが、そういった温もりのある感情は、朝ぼらけの中に見えてきた例の建物によって面白いぐらいに冷めてしまった。
 東京国際展示場……。通称、東京ビッグサイトだ。
 テレビや雑誌などで見慣れてこそいたが、こうして間近で観察してみると、本当に知能指数が低そうな建物に思えて仕方がない。中銀カプセルタワービルも、ラ・ビアンカーラも、マカオの中心街も、嫌な具合に積み上げられたブロックのようにしか見えないオレにとっては、透明なピラミッドをひっくり返したようなあの建物も、かなりどうしようもない部類に属するのだ。
 国際展示場正門駅で降りて外に出ると、やはり早朝のためか人通りはまばらで、なんというか、あっさりしたものだな、と思った。何がどうあっさりなのかは分からないが、とにかくそう思った。
 この殺風景の中で、海だけが輝いている。そして埋め立て地。観光地として売り出される前のお台場がどういう街だったのかは知らないが、今よりももっと静かな街だったのだろうとオレは勝手に妄想した。
 四月末の大気は意外に冷え込んでいて、海からの風がそれを助長している。こう寒いとジャケットでも羽織りたくなるが、あいにく持ち合わせがないので我慢。オレは早朝自体は苦手ではないが、朝の気温は苦手だ。
 今回、オレが設営業務を受け持つのは『M3』というイベントらしく、普段であれば東京国際流通センターで開催されるところを、急遽会場が東京ビッグサイトに変更されたという事情については今朝調べたばかりだ。
 学のないオレなりに『M3』について調べてみたところ、その正式名称は『Music Media-Mix Market』といい、日本最大級の同人音楽の展示即売会イベントということだった。事前に手続きなどを済ませてしまえば誰でも参加することができ、趣味で作ったCDやその他グッズを販売することができる。つまるところは、音楽版のコミックマーケットみたいなものだろう。
 もし『M3』の会場にオレの知り合いがいたら盛大に笑ってやろうということを一心に考えながら、東京ビッグサイトに到着。オレは一旦立ち止まって携帯を見る。午前六時四十九分。そしてセキセイインコの壁紙。携帯で時間を確認するのはオレの悪い癖で、是非とも直したいところではあるのだが、他の欠点が多すぎて、わざわざそれを直す気にはなれない。オレは熱くない釘は打たない主義だ。
 まったく、オレはとんだ馬鹿だと自分自身を笑いながら、社員通用口のドアを開けた。しかしまだ寒い。どうやら、ここには暖房もクソもないようだ。
 守衛所で言われた通りに名前と入館時間を用紙に書き、無事入館証を渡される。さっそく首にぶら提げてみる。二十三歳無職の男から、二十三歳フリーターの男へ進化することに成功。演出の途中でBボタンを押さなくてよかった。オレに不足しているものは経験値だけではないからだ。
 期限付きで東京ビッグサイトの関係者になったオレは、昨日調べたフロアマップを思い出しながら、勤勉なドイツ兵のように、訓練された足取りで目的地へと向かう。東京ビッグサイトは逆三角形の構造が目立つ会議棟を中心として、東展示棟と西展示棟の二つに分かれている。今回『M3』が行われるのは西展示棟の西1ホールだった。やけに広く作られている通路をいくつか抜けると、その先は吹き抜けになっていて、『M3』の会場である西1ホールの出入り口が見えてくる。そこから更に逆L字型の通路を右に折れたところに、図面上では西2ホールの出入り口がある。
 こうして巨大なホールの巨大な扉を目の当たりにすると、なんだか急に緊張してくる。オレは今日一日を、同人音楽の博覧会で過ごすのだ。
 しかし肝心の業務の内容と言えば、それは現地で聞くようにと電話で言われていたが、その裏を返せば、オレみたいな未経験者でもその場の指示でなんとなく動けるような、ひどく単純なものなんだろう。
 そして、オレは単純作業が得意だ。プログラムされたロボットのように、ひとつの行動を繰り返すだけで時間が経つのだから簡単な話だ。これはものすごく極端な話になるが、やることが単純作業だけであれば、あのビートルズの幻のドラマーであるピート・ベストのように、週給十二ポンドのパン工場で働いてもいいとさえ思っている。
 とはいえ、誰かに裏切られるのは嫌だし、利権をめぐる裁判で心を壊すのも最悪だが、どちらかといえば、オレはいつも人を裏切る側にいる。
 そもそも、一九二九年のウォール街をタメを張れるほどのこのひどい不景気で、週給十二ポンドという仕打ちはもはや殺人に近い。リンゴ・スターに白羽の矢さえ立たなければ…。ピート・ベストは本当に世界一不幸な男だ。
 彼、ピート・ベストに比べればなんてことはないが、それでもやはり不幸なことに、オレは生まれつき金遣いが荒かった。しかも、ラーメンとか焼肉とかカツ丼とかそういう、形の残らないものばかりに金をつぎ込む。悪い癖だとは思っているが、生まれ持った悪癖はそう簡単には治らない。オレがひとたび繁華街を歩けば、家でまともなものを食べていない人間の胃に突き刺さる、街に溢れるあの暴力的な匂いにオレはやられてしまう。そして金がなくなる。オレは通帳をほとんど見ないが、最後に見た時はたしか四万円ぐらいしか残っていなかった。
 ただでさえ失職したばかりなのに、さらに金遣いも荒いオレは、どうにかしてこの先も金を稼いで、この東京で生き抜いていかなければならない。だから、今こうしてオレは東京ビッグサイトにいるわけだ。
 とはいえ、このアルバイトが終わってしまえば、オレはまた無職に逆戻りだ。明後日の夜あたりには、オレは未来に対する不安でいっぱいになっているだろう。そうなればまたアルバイトを探せばいいのだが、オレは自分の中に宿る怠惰と格闘する能力が低いという懸念がある。逮捕されない前提で考えれば、麻薬取引もなんとなく面白そうに見えるが、オレはリスク管理が甘いのでおそらく摘発されてしまうだろう。
 とはいえ、かの名探偵シャーロック・ホームズだって、コカインを吸ってバキバキの状態で推理していたわけだ。オレの身の回りにも、軽度のヤク中ぐらいならいそうなものだが、もしそれを見つけたら、そいつから少し分けて貰って、オレもコカインなどキメてみようか。でも、オレはシャノン・フーンやその他の例を知っているため断念。シャノン・フーンは探偵ではなく、ミュージシャンだが。そもそも、コナン・ドイルのような古典的なミステリーは平成初期の段階でほとんど絶滅している。糸や歯車やトリックや盲点やアリバイやピアノ線や密室などなくても、機械と機会さえあれば何でもできてしまうだろう。犯人が何でもできてしまうように、ストーリーを組み立ててしまえるだろう。推理小説における謎や論理は、すっかり崩壊…というのが大げさな言い回しであれば、消失…してしまったのだ。
 そういえば、メキシコかどこかの国で(北米から中南米のどこかではあった気がするが、もしかしたらそれも違うかもしれない。小心者のオレは、こうやって保険をかけることで安心する)、どこの組織にも属せず、完全に独学の麻薬ビジネスで、数え切れないほどの高級タワーマンションを所有するまでに成り上がった男のインタビューを『クレイジージャーニー』かなんかの番組で見たが、さすがに東京でそこまでやってのけるのは難しいだろう。日本の警察は優秀だ。デトロイトの市長のようなことを言っているが、本当に日本の警察は優秀なのだ。
 そもそも、どこを歩いても人しかいないような東京で、本当に安全な方法で違法薬物など買えるのだろうか。とりあえず折口信夫に聞いてみようか。はい、現実逃避終了。
 ついでに、麻薬中毒の偉大なる犠牲者のシド・ヴィシャス、ジョー・ペリー、カート・コバーンに黙祷。

  3

 西1ホールでオレに与えられた仕事は、主に段ボールやパイプ椅子、机の運搬業務だった。実際やってみると、指定されたところにいちいち薄いテープが貼ってあって、机はここに置け、段ボールはここに置けというふうなことを素人のオレでも一発で理解できる。
 オレを含めて二十数人くらいのアルバイトの尽力によって、一時間足らずでほとんどの準備が終わった。慣れない体の動きに意外と体力を使わされたオレは、乾いた喉を潤すために会議棟のエントランスホールの自動販売機で緑茶のボトルを買ってすぐ飲んだ。普段のオレだったら、『家族ゲーム』の時の松田優作をイメージしながら口にお茶を運んでいるところだが、今のオレがイメージしているものといえば、アサヒ飲料のコマーシャルで高そうな缶ビールを美味そうに飲む芳根京子の顔ぐらいのものだった。芳根京子に限らず、爽やかに媚びるということを覚えている人間はそれだけで人生を得しているとオレは思う。
 緑茶のボトルを握り潰すように飲み終えた(会議の間の短い休み時間に、様々な栄養素の含まれたゼリーを喉に流し込む社会人のような、とにかく乱暴な手つきだった)オレは、そう言えばシンプルな肉体労働という経験は今までありそうでなかったな、と思う。だからこそ、普段家でぼけっとしながら飲む茶よりも百倍美味い茶が飲めた。
 こういう時の飲み物はコーラかアクエリアス、もしくは最低でも糖分の含まれた飲み物だと相場は決まっているのだが、十円二十円のお金をちびちび節約するのを数少ない趣味としているオレは、吸い寄せられるように緑茶のボタンを押してしまった。東京ビッグサイトの会議棟のエントランスホールにある自動販売機の中だと、天然水が最も安価かつ量の多い飲み物になるわけだが、味のしない液体を飲み物として認めてやるほどオレは素人でもないので、やはりオレの決断は正しかったのだと納得する。
 ところで、この『M3』の設営のアルバイトの条件には確か『高校生不可』とあった筈だが、明らかに高校生、まだ高い所が怖いとかそういう事を言ってそうな感じの奴が二人ほどいた。そいつらは基本的に二人一組で行動していたが、もちろんオレにそういう相手はいない。むしろ、自分の知り合いが『M3』に関与していたら、その事を盛大に笑ってやるつもりだった、そんなオレには当然のごとく親友などいなく、この『M3』のアルバイトにおいても、この一時間余りで同じ舟に乗り込んだはずの同志と業務以上の話をする機会は無かった。
 茶で腹をそれなりに満たしたオレが西1ホールに戻ると、今度は『M3』に並ぶすべてのサークルが記載されたカタログやパンフレットなどをまとめて入口付近のテーブルに置き始めているところだった。
「あ、平見さん」西1ホールの入口から堂々と入ってきたオレを見て、現場監督っぽい雰囲気もくそもない、ごくごく普通の大学生っぽい男が言った。「勝手にいなくならないで下さいよ」
「すいません、お茶買いに行ってました」
 オレは左手をプラプラ揺らしながら軽く謝った。とは言いつつも、『スタッフ 高橋』と書かれた名札を下げているその男は、それほど怒っているようにも見えない。二十人以上もアルバイトのスタッフが居るんだから、突然一人居なくなったところで別にそこまで痛手にはならないんだろうなという勝手な妄想のイメージが、そこそこに強固な力をもってオレの脳内に浮かんだ。
「あ、それからもうひとつ」
「はい?」
 高橋の声色から追撃の予感を察知したオレは、一瞬にしてオフェンスフォーメーションを崩さざるを得ない状況に追い込まれた気がしたので、とりあえず身構えておく。
「これから、一時間ほど後にサークル入場が始まります。細かな配置ミスなどないよう、お手数ですがもう一度よく確認をお願いします」
「はい。わかりました」このタイミングでボトルの緑茶を飲むかどうか迷っていたオレは、自分が思っていた以上にハキハキした声でそう答えた。ガードコマンドを解除。それと同時に、早朝『南極観測ではたらいたカラフト犬の記念像』を見に行く前から淡く抱いていた疑問を思い出す。「ひとつ聞きたいことがあるんですが」
「何でしょうか」 
「あのこれ、オレみたいなアルバイトのスタッフでも、CDとか買っていいもんなんですか」
「はい、えーと」高橋は少しおどろいたように言った。「例えば、開場直後のピークタイムなど、明らかに忙しいタイミングで買いに行くのは控えてください。ただ、人行きがある程度落ち着いたと判断できたのであれば別に何を買っていただいても構いませんが」
 高橋はまさかそんなことを聞かれるとは思わなかった、というような表情を浮かべた。
 人の無意識な悪意がのぞく瞬間。
 オレの苦手な瞬間。
 そんなこと聞かなくてもわかるだろと言われた気分。そんなこともわからないのかと言われた気分。お前は初心者だと言われた気分。徹底的に疎ましさをアピールされた気分。オレの感受性が高すぎるのが根本的な問題だとは、オレ自身理解しているつもりだが、それでも全然いい気分ではない。
「なるほど、分かりました」
 オレは自分に宿る精一杯の社交性を披露してから、とりあえず気持ちを散らすために事務机に置いてあった『M3』のカタログをパラパラとめくってみたが、思っていたよりも文字サイズが小さくて流し見するには厳しい。途端にいろいろなことを一気に諦めたくなったが、例のカラフト犬の記念像の事をやや強めにイメージして思い出せば、不思議とそういった不浄な考えはどこかに行ってしまう。動物の力は偉大だと思いながら茶を飲む。咽喉越し爽やか。
 緑茶とカラフト犬によって、活力をそこそこに取り戻したオレは、続いて配線関係の作業に取り組むことにした。配線のケーブルと電源がうまく繋がっていないと、映像上映コーナーが機能しなくなるため、サークル入場の後も逐一確認しておくようにとはじめに言われたが、誰がやるのかということは特に指示されなかったため、とりあえず誰かが見張っておけばひとまずは安心だろうと、未経験者の独断でオレは電気室の重いドアを開ける。
 電気室は想像以上に薄暗くておどろいた。地面に薄く長く、オレの影が伸びている。一人の男が生活できそうなぐらい広い部屋の中には、黒いビニールで包まれた電線がそこら中に散らばっていて、すでに様々な制御装置(電源装置、と表現するかどうか迷った)とプラグで繋がっているものもあれば、そうでないものもあり、今のところ使われていない電線の多くは太めの結束バンドで固定されて部屋の隅にまとめられている。それにしても、さすが東京ビッグサイト。そこかしこにコードとプラグがあって、ここに死んだ蛇が一匹混じっていたとしても、本当に誰も気づかなそうだ。
 あとは何と言っても、壁に綺麗にめりこんだような、壁そのものがそれに合わせて取り壊されたような…そんな事を思わせるほど巨大な電源装置らしきものが、見える限りでは二つも置いてあったが、案の定まったくの未経験者であるオレには、この装置の根本的な使い道も、これをどうやって動かすのかも、無数に存在する小さなボタンの意味も、何が何だかサッパリわからない。まるで『恐怖新聞』をひたすら読んでいる気分だ。つのだじろうに敬礼。
 こういう時、好奇心に任せて行動してしまうのは素人の証拠。オレにできることは本当に何もないようだ。その道のことはその道のプロに任せておけば良いので、さながら敗残兵のような足取りで素早く退室したオレは、開かれている西1Bの搬出口付近にスタッフが集まり始めているのを見つけた。
 どうやら、ホール内の準備がひと段落ついたのだということに気がついた、運動神経抜群というわけでもない一般人のオレは、広い西1ホールの端(電気室は目立たない場所にあると相場は決まっている)から、スタッフの集まっているところまで全速力でダッシュすることにためらいを持たなかったが、その試みはあえなく失敗に終わった。本当にもう、どうにかなりそうなぐらい息が切れたのだ。
 おおよそシャトルランを三往復できるぐらいの距離があるのではないかと思ってはいた。だが、実際走ってみるとそれは三往復などという生易しいものではなかった。体感だと、七往復半だ。思わず、あの有名な漫画家や、くだらない小説家がよく便利使いする、例の文句を発してしまいそうになった。『やれやれ』というやつだ。
 とは言え、体感は危険だ。体感に振り回されるのは素人の証拠。人間として生きているならば、しっかり目の前にあるものを実感しなければならない。『やれやれ』、しかし予想以上に息が切れてしまった。『やれやれ』、高橋が何か説明しているが、今度は一体何をやらされるんだろうか。
「お疲れ様です。これから一般入場の受付を設営しますんで、皆さんは一旦外に出てください。柵やテントなど、必要なものはあらかたあの黒いケースに入ってます。搬出する際は、お手数ですが荷台に乗せてからでお願いします」
 比較的長い文章を喋る際、高橋は早口になるというどうでもいいことをオレは発見してしまった。こういう無駄な事は二秒で忘れたいが、おそらく今日という一日で忘れることはないだろう。
 とは言え、人に何かを説明する時、人並み以上に滑舌が良い人間は得だ。ヒロ・オクムラには滑舌というものが足りていないと思ったオレは、途端にあの冴えない大学生社長の容姿を思い出して笑ってしまいそうになったが、自分の中にいる笑顔を素早く握り潰すことによって平静を装うことに成功した。まったく、何が絶ピンネタだ。頭が悪いんじゃないのか? 思えば、田津原理音が優勝してからあの番組はおかしくなってしまったような気がする。そういえば、お台場にはフジテレビもある。東京ビッグサイトとフジテレビ。あいかわらず、両方とも嫌な建物にしか見えないが、しかし東京ビッグサイトの内部から見る逆三角の透明なピラミッドは意外にイケていた。といってもそれはデザイン性ではなく機能性の話で、巨大なガラスは面積が大きい分、日光を取り込む力がものすごいのだという発見がオレにはあった。『やれやれ』、先入観は危険だ。
 すぐに物事の本質を見失うオレは、まずい兆候を察知して意識の流れを即座にコントロールする能力を持っているオレは、とりあえず自分の中の笑顔をより完璧に握り潰した。感覚としては、水風船を握り潰すイメージに近い。感情をコントロールできないのは素人の証拠だが、逆に『笑いながら怒る人』の竹中直人や、『神聖かまってちゃん』のライブパフォーマンスのレベルまで行ってしまえば、それはそれで素人離れしているということを認める感性もどうやらオレには備わっているらしいということを発見する。やはり、先入観は危険だ。

  4

 午前九時頃、サークル(出展者のことだ)の先行入場が始まった。
 サークルごとにブースの出展する場所が事前に決められていて、参加者はそれを番号で把握しているから、基本的に迷うことはありませんと高橋が言っていたが、本当にその通りでおどろいた。
 今回の『M3』に参加するサークルの数はおおよそ五百ぐらいだと聞いていたが、それほどの人間(実際はそれよりもっと多かった。一サークルあたり一人という計算式を勝手に組んでしまったオレのミスだ)がぞろぞろと西1ホールに入ってくると、オレは途端に息苦しさを感じてしまい、「これは結構気が滅入るかもしれないな」と思った。
 そして間もなく、オレは実際にかなり気が滅入る出来事に遭遇した。
 馬鹿を見つけたのだ。
 東京ビッグサイトに、『M3』に、馬鹿がいた。
 その馬鹿は、サークル参加列の端のほうでブースの設営作業をしていた。そこが搬入口の近くだったので、オレはその馬鹿に気づく事ができたというわけだ。
 そんな『M3』に、『パノラマ切片実験室ガリ猫』という名前で参加しているやつがいたら、間違いなくそいつは馬鹿だろう。
 そしてそいつは残念なことに、オレの知り合いだった。オレはそいつの顔も素性を知っているし、そいつもオレの顔と素性を知っている。
「おい」
 オレは馬鹿に声をかけた。
「はい?」馬鹿は作業を中断して、オレの方を見やった。そしてにやりと笑った。もしこいつとオレが初対面だったらかなりイラついていたところだが、オレはこいつのこういう表情に耐性を持っていた。「これはこれは…平見さんじゃないですか。ご無沙汰ですね平見さん。久しぶりですね平見さん。何か月ぶりですか? 僕の体感だと一年と二か月ぶりなのですが…ところで平見さんはこんなところで何をしているんですか? もしかして平見さんも『M3』に参加しているんですか? 意外ですね平見さん。水臭いですね平見さん。阿呆臭いですよ平見さん。それならそうだって早く言ってくださいよ。連絡先交換してますよね? まあ、平見さんの方から連絡を貰ったことは一度たりともないわけですが」
 よく喋る馬鹿だと思った。この上なく面倒だったが、オレから声をかけたのだからそんなことは言えない。
「オレはスタッフだ」オレは首に提げている入館証を見せた。「お前、こんなところで何してる」
「何してるって…見てわかりますよね。平見さんはそんなに馬鹿だったんですか? ちょっとがっかりですね。申し遅れました、『パノラマ切片実験室ガリ猫』の酢醤油味噌の坂大崎と申します」
「馬鹿はお前だ。少なくとも、オレは一発で覚えられない名前をつけるやつよりよりは賢いつもりで生きているからな」
「ゴッホの本名とか、スリランカの首都の名前の長さをネタにする人たちを見て、平見さんはどう思います?」
「全員、馬鹿だ」
 オレは真理を口にした。
「平見さんは不幸なんですね」
 どうやら、この馬鹿はただの馬鹿でしかないようだ。
「それよりも、お前はここで何を売ってるんだ」オレは話を戻した。「『パノラマ切片実験室ガリ猫』の新譜のタイトルを教えてくれ」
「『カツアゲムーチョ8 〜お前のロマンスとフレンチクルーラーとライ麦畑のスコッチソーダがヤバい!〜』です」
「最悪だな」オレは実直な感想を口にした。「サリンジャーを、『ライ麦畑でつかまえて』を読んだこともなさそうだな。いつだったか、くだらない曲のタイトルでくだらないVTuberがオマージュという形でサリンジャーを汚していたが、オレは今でもそれを許してないぞ」
「だからきみは人として微妙なんですねえ。平見さんの微妙さを例えるとしたら、まあ地球グミくらいかなあ? 城で言えば松本城、国で言えばプエルトリコ、漫才師で言えば東京…」
「プエルトリコは国じゃない」危険な流れになってきたので、オレは馬鹿の演説を打ち切った。「それで、その何とかムーチョをお前は何円で売ってるんだ」
「何とかムーチョ? 平見さんはモグリですね。平見さんはニワカなんですね。『ドラゴンクエスト』シリーズをご存じない? ダンビラムーチョ。元ネタは芸人ではありませんよ。原田フニャオでも、人間カラオケボックスでも、冨安四発太鼓でも蛾でもありません」
「お前はオレの話を聞いていたのか、おい」
 かつて社会現象にもなった『ドラクエ』シリーズの最新作を買うために、まだ日が昇らないうちから並び込んで行列を作る人間を心から軽蔑しているオレは、この馬鹿との会話にもうんざりしているのだが、だいたいの馬鹿は馬鹿なのによく喋るというのが通例だ。
 そして、会話をすべて自分のフィールドに引き込もうとするタイプの馬鹿が、オレは一番苦手なのだ。散々人を振り回しておいて、それを張本人が自覚していないというのだから最悪で、そういう冗談みたいなやつがごろごろいるのがこの世界だ。
「おっと失礼。『パノラマ切片実験室ガリ猫』のM3春新譜、『カツアゲムーチョ8 〜お前のロマンスとフレンチクルーラーとライ麦畑のスコッチソーダがヤバい!〜』は十三曲収録で千円ちょうどですよ。一曲につき百円未満というのはときめきますよね。二桁になるだけでお得感たっぷりですよね。でもそれに惑わされてはいけませんね。うそをうそと見抜ける人でなければ社会を生き抜いていくことは難しい世の中ですから、物の価値はよく考えないといけませんねえ」
「そこまで社会をわかってるお前にちょっと聞きたいんだけど、自分で作ったものに自分で価値をつけるっていうのはどういう気持ち? オレにはわからない感覚だけど」
「そうですねえ、まあ適当ですよ。同人音楽において、利益を第一に考えるのはご法度です。レコード会社から出してるわけでもないのでね」馬鹿は正しいことを言った。「どうです? 僕、今格好良いこと言いましたよね?」
「後半部分を完璧に無視してさえいればな」
「無視とは、なかなかにしょっぱいですね平見さん。塩辛いですね平見さん。過剰な自信というのは、メンタル管理の上で最重要課題です。探偵だって、自分の推理に自信があるから探偵でいられるわけでしょう? 自分の脳みそと、必要な情報だけで事件を解決する、それが探偵です。そして、それこそが社会を生きるうえでの本質です」
「オレは、お前のようになるつもりはない」オレはきっぱりと告げた。「それから、オレは他人の記憶を見ることができる探偵が主人公の推理小説を読んだことがあるが」
「ああ! それなら僕も大ファンですよ。『この世はでっかい宝島だから、今こそ不思議な旅をはじめるのだよ少年』ですよね」
「大ファンの癖に決め台詞を間違えるんだな」オレは失望してそう言った。「オレはリスペクトのないやつは嫌いだ」
「決め台詞って言わないであげてくださいよ」
 誠意のない返答。こいつはやっぱり馬鹿だ。
「どうでもいい」
「ところで、平見さんは確か…そうそう、前会ったときは松屋で働いてましたよね? それは辞めたんですか?」
「辞めた。それからラーメン屋、ドンキ、警備会社をそれぞれクビになって、今はこれだ」
 オレは再度、首に提げた入館証を揺らしてその存在をアピールした。
「クビ?」馬鹿は人を舐めきったような表情を浮かべた。「平見さんは仕事ができない人材なんですか?」
「関係ないだろ」
「それは負け惜しみですか?」
「オレは仕事に戻る」
 ありったけの怒りを叩きつけるようにそう言って、オレはこの場を立ち去る。馬鹿に一番効果があるのは、無視。
 オレは自分の中にあるマイナスな感情を全て握り潰してから、騒がしい西1ホールの出入り口に向かって歩いていく。

  5

 十時半に『M3』の一般入場が始まって、そのままにピークタイムのスタッフ業務を捌き終えた昼休みのオレは、ロビーの自動販売機で本日二本目の緑茶を買って、歩きながらそれを飲んでいた。
 そこで、問題のイベントが起きた。
 そしてそれはオレの知る限り、かなりイレギュラーなイベントだったので、オレは極めて自然に心霊現象が起きたのかと疑ったが、ぱっと見た限りそいつには二本の脚がちゃんとあり、紺色のリボンがよく目立つ制服を着た、世俗的に…という表現が鼻につくのだとしたらいわゆる、『女子高生』と呼ばれている種族だった。
 そいつがロビーのソファーに座っているオレの隣に当然のように座ってきたのだ(オレの名誉のために言っておくが、他に開いているソファーはたくさんあった)。それと同時に生娘特有のかすかに甘い匂いもオレは感じ取ったわけだが、二十三歳の感覚しか持たないオレには、センチメンタルの喚起にすらならなかった。
 そしてその女子高生は、この近辺では有名なお嬢様学校のセーラー服を着ていたが、残酷なことに身長がとてつもなく低いため、私服であったらオレは確実に中学生だと誤解していただろう。そのガキみたいな体型と、後頭部のすべてをゴム一本でまとめたガキみたいな髪型とは不釣り合いな、おどろくほど凛とした瞳をそいつは持っていて、もしも切り裂きジャックがその少女を見つけていたら、生きたままナイフでメッタ刺しにしてから解体して、ナマズが住めないほどに汚いドブ川に遺体を流していたに違いない。昨今の若者女子によく見られる、しつこいほどの表層的な個性はないが、オレはそのインパクトが控えめなところ、そして自らの身分を弁えているようなところにかえって好感が持てた。アクション映画を五本ぐらい観たあとに、四万十川を流れる豊かな水流の音を聞いた時のような気分。
「こんにちは」少女は茶を飲んでいるオレに話しかけた。「『M3』のスタッフの方ですよね。今は休み時間ですか?」
「そうだが」
 オレは厳しい視線を向けた。
「えっ」少女はびっくりしたような表情を浮かべた。「スタッフなのに、お客さんに敬語を使わないんですか? 別に私はいいですけど、他の人にやってたらお兄さん即クビですね」
「休み時間のオレは『M3』とは何一つ関係のない、二十三歳でフリーターの男だ」オレは当たり前のことを告げた。「あと、誰だか知らんが『お兄さん』呼びはやめろ。膝が痒くなる」
「私の顔、どこかで見たことありませんか?」
「ない」
 オレは即答した。
「私もないです」
「だろうな」
「私は赤井といいます」赤井は前髪を邪魔そうにかき分けた。「下の名前はマツバといいます。赤井茉庭」
「オレは平見だ」
「ひらみ……」赤井はイントネーションを重視する口調で反復した。「平見さんと言うのですね」
「そうだと言っている」
「下の名前は?」
「そこまでお前に言う必要はない」オレは保身の鎧を着た。「まさかお前、自分は本名を全て明かしたのにオレがそうしてないからフェアじゃないとか言うんじゃないだろうな」
「言いますよ」
 赤井は例の鋭い視線をオレに向けた。
「とんだ当たり屋だな」オレはあきれて言った。そしてそのタイミングで、こいつは話の通じる人間ではないと、オレは直感した。だからオレは素直に観念することにした。「下の名前は敦だ。平見敦」
「アツシ……」赤井は再度、イントネーションを重視する口調で反復した。「平見敦さんと言うのですね」
「随分と探りを入れてくるやつだな」オレは困惑という感情をふくめて言った。「初対面なのに」
「平見さんは、自分の名前を気に入ってますか?」
 赤井は急な質問を繰り出した。
「田中佐藤山本鈴木が共通に抱えるコンプレックスを経験せずに済んだと説明すれば分かるか」マツバという苗字みたいな名前の少女をオレは一瞥した。「それがどうした」
「いえ、別に」
「オレに何の用だ」
 とりあえず、オレは派手に脱線した流れを元に戻すために口を開いた。
「月並みな台詞ですが、私の捜査に協力していただきたいのです」
「はっ?」
 一瞬、オレの思考が停止した。
 捜査?
 協力?
 月並みな台詞?
 突然オレの隣に座ってきたチビの女子高生が、オレに何の捜査を手伝えと?
「現在『M3』が開催されている、この東京ビッグサイトに…小型のプラスチック爆弾が仕掛けられているとの情報が、とある人物宛てに届きました」赤井は事実を宣告するような口調で言った。「そこで、その爆弾を人知れず東京ビッグサイトから取り除くよう、その方から直接私に依頼が来たというわけですね。どうです? 平見さん。突然のことでおどろきましたか?」
 爆弾?
 情報?
 依頼?
 本当だったら、冗談は顔だけにしてくれよと言いたいところだが、赤井は至って真剣な面持ちだったのでこまってしまった。
「おどろいたというより、まず何よりも、オレは今、とてもこまってる」オレは本当にこまっていた。「しかし本当に、ひどいジョークだな。探偵小説好きな女子高生なんて、そうそういるはずがないと思ってたが、せめて現実と妄想の違いくらいはちゃんと判別してもらわないと、オレみたいな大人はこまってしまうんだぞ」
「ジョーク?」赤井は不満をたっぷり表明した。「ジョークでも妄想でもありませんよ。私は探偵なのです」
 こいつ……。
 恥ずかしげもなく『探偵』というワードを口にする女子高生を見るのは生まれて初めてだった。
 赤井がオレの隣に座ってきたときから変な奴だなとは思っていたが、まさかここまでとは思わなかった。
「そうか、つまりお前は少年探偵団の一員だって事か」
 オレは投げやりと思いつきと嘲りを一言に詰め込んでそう言った。
「私は『名探偵コナン』は好きではありません」赤井はわざとらしく頬をふくらませた。「金欠なので名刺はありませんが、私は正真正銘、本物の探偵なのです。ちなみに、現在はフリーですよ」
「本物の探偵がその年で務まるとは思えない」
 オレはすべての前提をぶち壊すつもりで疑問を投げかけた。
「平見さんは、『事実は小説より奇なり』という言葉を知っていますか」
「もう滅茶苦茶だな」こんなにも馬鹿げたことを、こんなにも簡単に答えてしまう赤井に、オレはとうとうあきれてしまった。「もう滅茶苦茶なんだな。もうこの先に秩序はありませんということなんだな」
「それを決めるのは私ではありません」
 赤井は例の凛とした瞳をオレに向けた。それがとても眩しかったので、オレは思わず目を覆いそうになってしまう。
「どっちだっていい」
 オレは赤井の瞳と闘いながら言った。
「助手、引き受けていただけますか」
「お断りだ」
 もちろんオレは即答した。
 まったく、何が探偵だ。
 冗談は顔だけにしてくれ。
 小型のプラスチック爆弾? それが、東京ビッグサイトに?
 しかもそれを解決するのが、チビでセーラー服で金欠なフリーの女子高生探偵?
 そんなもの、『週刊少年サンデー』で勝手にやってろ。そんなものは、オレの仕事じゃない。オレの役割じゃない。オレの人生じゃない。そんな異常なストーリー、オレの周りには必要ない。
「分かりました」赤井は素直に引き下がった。「では、ひとつだけ」
 しかしここで、オレは直感した。
 まずい予感。
 面倒な予感。
 巻き込まれる予感。
 オレの周りで、異常なストーリーが動き出す予感。
 そして、

  6

 そして、今に至る。
「お前はどこまでオレに付いてくるんだ」
 薄暗い部屋の中で、赤井の小さい顔がぼんやりと見える。
「コードがものすごく多いですね」
 赤井はオレの質問を無視して、水槽のクラゲの大群を見るような目で電気室を見回した。
 とりあえず、オレはロウソクでも懐中電灯でもなく、携帯のライト機能をオンにして電気室を照らした。部屋の一部が明瞭に浮かび上がる。
「わあ」生意気にも、赤井は年相応の反応を見せた。「でも携帯のライトって、あまり探偵っぽい感じしませんね」
 偶然にも、赤井はオレとほとんど同じ意見だった。
「もう一度聞く。なんでお前はオレに付いてきてるんだ」
「捜査に決まってるじゃないですか」
「決まってない」
 オレはうんざりして言った。
「平見さんは強情ですね。私は活劇向きの探偵なんですよ。例えば『極限の推理の果てに発見した時限爆弾を残り一分で解体する』みたいな」
「それは探偵の仕事じゃない」
「あとは『飛行中のエアフォースワンを占拠したテロリストたちを勇敢に退治する』とか」
「それは大統領の仕事だ」
 別に大統領の仕事でもないが。
「とにかく私は、探偵の頭を使って謎を解く、みたいなタイプの依頼がちょっと苦手なんですよ」オレは当然、赤井が探偵だとは一ミリも信じていない。「そこで平見さんの出番と言うわけです」
「冗談じゃない」
 オレはライトを天井に向けてそう言った。
「その通りです。冗談じゃないですよ」赤井は真顔で悪い冗談のようなことを言った。「私には助手が必要なのです」
「助手はマスコットだろう」オレは正論を言った。「結局、最終的に事件をなんとかするのは探偵の仕事だろ。つまり、ワトソン役がいなくても十分探偵の仕事は務まる。これで終了」
 しつこいようだが、オレは赤井が探偵だとはまったく信じていないし、これからも一切こいつを信用するつもりはない。
 浮気調査以外の仕事を受け持つ探偵が女子高生で、しかもセーラー服を着て捜査している上に、びっくりするほどのおチビさんだというのだから、レベルの低い冗談にしか思えない。レベルの低い冗談だと思うほかない。
 この馬鹿げた話に対するブーイングの機会が訪れるたびに、オレはこの嘘みたいな話に苦言を呈しているのだが、そのたびにオレは赤井に強く否定される。
「月並みな台詞ですが、平見さんはフリーターですか?」
「昨日までは無職だった」
 オレはもう勤務時間中なのにも関わらず、目の前の客(一応)に対してまったく敬語を使っていないという事に今更気づいたが、女子高生探偵という人類のルールを完璧に無視した存在を主張する下郎を相手に常識を持ち込む必要はないと感じたので、オレはその意思に喜んで従うことにした。
「じゃあ、平見さんが就職先を見つけるまでの間でいいです。私の助手になってください」
「金にこまってはいない」
 オレは虚偽の主張を行った。
「お金ではなく、働くという行為こそが最も大切だという事を、平見さんは誰よりもよく知っているはずです」
「知ったようなことを」
 オレは異議を主張した。
「知りましたよ。私、この一瞬で、平見さんの事を知りました」
 赤井は屁理屈を主張した。
「オレはお前を知らない」
「教えてませんからね」
「お前は一体、何を企んでいる」
 オレは赤井に率直な疑問をぶつけた。
「若い女の子に向ける言葉じゃないですね」
 そう言って、赤井は小さく笑った。それは年相応のものとは思えない、余裕に満ちた口調だった。
「探偵に向ける言葉としては適切だと思うが」
「最適ではありませんけどね」
「女子高生というのはもっと生き急いでいると思っていた」
「どういう事です?」比喩でも何でもなく、赤井は首をかしげてそう尋ねた。「私が暇だと言いたいんですか」
「そういう意味じゃない。ただ、お前の話を信じるとして、その爆弾がいつ爆発するのかもわからないのに、こんな悠長に暇を持て余してるスタッフと立ち話する時間が、探偵にあるものとは思えないだけだ」
「やっぱり。そういう事じゃないですか」赤井は不満そうに言った。「東京ビッグサイトに仕掛けられた爆弾は大体、私の顔ぐらいの大きさがあるそうですよ」
「お前に爆弾解除を依頼した人間は、どうしてそこまで知っているんだ」
「さあ。私には解りません」
「お前に解らないんなら、オレにはもっと解らないな」
 オレは両手を上げて、降参の意思を表明した。サレンダー(投了)というやつだ。
「私は探偵ですが、しかし普通の探偵ではありません。依頼者が最も望むエンディングを、依頼者が最も救われるエンディングを、依頼者が最も願うエンディングを、私はできる限り提供するだけです。それ以上のことでも、それ以下のことでもありません」
「とりあえず、お前の助手でもなんでもなく、ただの一般人として、オレが一つの仮説を立ててやる」オレは『ダイ・ハード』のジョン・マクレーンを意識した。「いいか、先に結論を言う。まず爆弾……それが東京ビッグサイトのどこかに本当に仕掛けてあるものと仮定して、そのプラスチック爆弾を『M3』のスケジュールに合わせてセットした犯人は、他でもないその依頼者本人だ。そして、そいつは情報提供者という立場を装い、お前に爆弾を探すよう依頼した。これが意味するところは……まあ、要するにゲーム感覚だろうよ、まったくとんだ野郎だな。知能指数が平均より低いこと間違いなしのそいつは、お前が無事に爆弾を見つけて人知れずテロを阻止するのか、それともお前が爆弾を見つけられずに全員ゲームオーバーになるのか、どちらに転ぶかを楽しんでいるんだ。だから、お前は今すぐにでもこの馬鹿げた探偵ゴッコをやめて、そのイカれた爆弾魔を警察に通報するべきだ」
 オレは即興で正しい妄想を並べ立ててみせた。
 だが次の瞬間、赤井は信じられないことを言った。
「恐らくそうでしょうね。状況から判断するに、それで間違いないと思いますよ」赤井は当然のように言った。「平見さんの言う通り、私が警察に通報すれば、この一件は解決するでしょう」
「それがわかってるんだったら、さっさと通報しろ」
「いいえ、そんなことはしません」赤井はまた信じられないことを言った。「月並みな台詞ですが、探偵には守秘義務があります。それに、一度受けた依頼は何が何でも絶対にやり遂げる、というのが私のポリシーです。したがって、私が一度引き受けてしまったこの依頼は、私が責任を持って解決しなければいけません。依頼者の最も望む形で、私はこの事件を解決します」
「お前、ぶっ飛んでるな」
 オレはもうこいつに何を言ってもダメだと、この瞬間で悟った。
 馬鹿げた話だが、オレはどうやら赤井と今日一日、爆弾の捜索をしなければならないらしい。これに比べたら、呉勝浩の『爆弾』なんてもっと、いやかなりマシな部類なのだろう。
「さあ平見さん、東京ビッグサイトが本当にぶっ飛んでしまう前に、私たちで爆弾を見つけてやりましょうよ。それに見たところ、『M3』の人手はむしろ有り余っているみたいですし」
「もう一度だけ聞きたいんだけど、お前は探偵小説に憧れた結果、自分が女子高生探偵だという馬鹿みたいな錯覚に陥っているだけの、ただの女子高生なんだよな? そうだろ?」
 オレは現段階で持ち得るであろう、あらゆる願いを込めて問いかけた。しかし、
「いいえ」
 赤井の最悪の返事。そして、
「私は紛れもなく、一人の探偵です」
 オレは改めて実感する。
 ……ああ、これはもうどうしようもない。
 馬鹿げたストーリー。
 ふざけたストーリー。
 無秩序なストーリー。
 オレは、とんでもなく厄介な事件に巻き込まれてしまったのだ。

  7

 オレは東京ビッグサイトの守衛所にいた。渡された用紙に名前と退館時間を書き、バインダーと入館証を返却する。オレが入館してから退館するまでに、十三時間と七分の時間が経過していたようだった。
 結論から言うと、例の爆弾は東展示棟の女子トイレの掃除用具入れに仕掛けられていた。とりあえず、各階のトイレと非常階段をしらみつぶしに当たってみようとオレが言って、赤井は依頼者の方の性別をお教えするわけにはいきませんと言った。
 まず手始めに、西展示棟は全滅だった。その次はエントランス、ここもダメだった。そして東展示棟の東2ホールのそばのトイレに、爆弾はあった。
 それはほんとうに赤井の顔ぐらいの大きさの白い小包みで、中を開けようとオレが言うと、赤井は危険なのでそれはできませんと頑なに断った。
 これで依頼者の方も満足のいくエンディングになったはずです、と赤井は言っていたが、オレは何も満足していなかった。あれだけ女子高生探偵だなんだと騒いでおいて、しかもその爆弾の在処がトイレの掃除用具入れだなんて、徹底的に馬鹿にされたような気がした。
 そういう当然の不満をよそに、一方的に押し付けられた助手という迷惑な役柄から一方的に解放されたオレは、何事もなかったかのように西1ホールに戻って、十五時まで運営スタッフとしての仕事をまっとうしたあと、その有り余った体力と不満をぶつけるために、撤収作業にも積極的に参加した。
 オレに与えられたすべての仕事を終えると、時刻はもう二十時を回ろうとしていた。オレは打ち上げの誘いを断り、さっさと家に帰って寝ようと思い、アルバイトの誰よりも早くロッカーから出て、ついでに緑茶のボトルを自動販売機で買った。
 結局、CDは『パノラマ切片実験室ガリ猫』の『カツアゲムーチョ8 〜お前のロマンスとフレンチクルーラーとライ麦畑のスコッチソーダがヤバい!〜』を一枚だけ買って、あとは何も買わなかった。馬鹿がオレの差し出した千円札を受け取ったときの、あのにやにやした嫌な顔を思い出した。
 通用口を開けて外に出ると、そこに赤井がいた。
「今日は本当にありがとうございました」
 オレは赤井の言葉を無視して歩き出す。
「平見さんはやっぱり、私の助手になるべきだと思います」
 背後から声が聞こえた。オレは振り返った。
「お前が探偵だとは信じていない」
「冷たいですね」赤井は行きつけのラーメン屋の味玉無料券をわざと破かれたような表情を浮かべた。「今回の一件で、私と平見さんには友情が生まれたと、そう思いませんか?」
「そういう話をしに来たのか」
 オレはうんざりして言った。
「そういう話っていうか、なんというか」赤井は破かれた行きつけのラーメン屋の味玉無料券の使用期限が切れていたことに気づいたような表情になった。「まあ正直、トイレに爆弾というのは凡庸な発想すぎますね。私には思い浮かばない、まさに盲点でした」
「オレはそういう話に興味はない」
「平見さんは、私に少しでも友情を感じていますか?」
 赤井が尋ねた。
「察してくれ」
「情というのは、対象への好悪によって差が生じるものです」
「だから何だ」オレは言った。「何が言いたい」
「平見さんは、私の事を嫌いではないのですよね」赤井の表情は自信に満ちていた。「解っちゃいますよ、そういうの」
「待ってくれ」オレは一歩引いた。「オレは不服だ」
「女の子に隠し事はできません」赤井はうなずく。「もちろん、その他のいろんなことだって解ります」
 そして、赤井は笑った。
 余裕の微笑ではなく、普通の笑顔を。
 勝利の微笑ではなく、単なる笑顔を。
 オレは不思議なタイミングで笑う赤井を観察する。赤井は、人間は、なぜ笑うのか。オレはわからなかった。
 人間には、数多くの表情がある。赤井の単なる笑顔も、おそらく今オレの顔に張り付いているであろう単なる無表情も、間違いなくひとつの感情だった。
 うまく笑顔を作れないオレは、なぜ人は笑うのだろうと考えた。そうしているうちに、夜空に浮かぶ一番星が目に入った。
「お前、大人びてるな」
 赤井は単なる笑顔を単なるおどろきに変えた。
「どういうことです?」
「お前には、ちゃんと色がある」素直に、あるがままの感情で笑えたり、おどろいたりできる赤井がオレを注意深く見ている。「オレは、そうはいかない」
「格好良いセリフは、夜に合いますね」
 赤井は格好良いセリフを口にした。
「完璧な返しだな」オレは無表情で、赤井の背後に立つ東京ビッグサイトを見上げた。「じゃあな」
 そしてオレは背を向けた。
 オレはそのまま歩き出した。赤井とオレの距離が離れていくのがわかったが、しばらく進んだところで呼び止められた。振り返ると、ただでさえ小さい赤井の身長が、枝豆ぐらいのサイズになっていた。遠近法の魔術だ。
「またどこかで会いましょうね!」
 遠くから叫んだ赤井は、オレに向けて手を振っていた。
 なぜこいつは、こんなにもオレに興味を持つのだろう。もしも赤井が本当に探偵なのだとしたら、あの爆弾騒ぎだって一人で解決できたはずだ。トイレの掃除用具入れなんて、物の隠し場所としてはありふれているし、素人のオレですら普通に思いつくような発想だ。
 そういった疑問をすべて受け流すのが、赤井の探偵としてのポリシーなのだろう。顧客ファーストという言い方が不遜だとしたら、お客様第一という考え方。
 いずれにせよ、十三時間と七分で面倒を考えることに疲れたオレは、普通の声で言う。
「二度とごめんだ」
「えっ? 聞こえません!」
 セーラー服姿の小さな探偵を二秒間ほど見てから、オレは駅に入った。
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