目次
第10話『反応』
第2章『依存』
——誰かを救いたいと思うとき。
私たちは誰かに、自分の理想を押し付けるんだと思う。
こうした方がいいよ、そうした方が幸せだよ、なんて言って、誰かの正義を捻じ曲げてしまうんだと思う。
そして、誰かに救われたいと思うとき。
私たちは、誰かの理想の姿になろうとするんだと思う。
——でも、私は誰かにとって、理想的な存在にはなれなかった。
きっと普通は、大切な人の理想になる努力をして、大切な人に必要とされるために変わろうとする。
それが『最適解としての正解』で、必要な道筋だから。
でも、私はどれだけ努力したって、失ったものを取り返すことはできない。
だから私は——大切な人の理想そのものを捻じ曲げて、必要とされようとした。
———————
第10話『反応』
まだジメジメとした暑さが残る夏休み明け、宿題が終わっていない生徒たちの阿鼻叫喚が学校中のそこかしこから響き、友達の宿題を借りて答えを書き写す光景があちこちで見られた。
そんな地獄を味わわないように、先手を打って行動していた私たちは、小雨が降る朝の中庭で、静かに話を始めたのだった。
「——ねえ、リン、部活誘われたんだけどどうしよう」
二つの校舎を繋ぐ連絡通路の屋根の下で、雨音と吹奏楽の合奏を聞きながら、アルトラは深刻そうな顔で私に報告した。
「ぶ、部活に誘われたの!?」
私たち二人はいわゆる『帰宅部』であり、友達もいないので今更部活に入る機会など、なかなかないのだが——なんと、アルトラは勧誘を受けたらしい。
「え、何部に誘われたの?」
「柔道部。道場の先輩経由で誘われた」
「……そういえば柔道やってるんだもんね」
あの事件の後で知ったが、彼が同級生や高校生をいなしたり投げたりしたのは、大半が柔道の技だったらしい。
——ただ、本来『柔道』では相手を左手で支えて『受け身』を取らせるのが正しいらしく、どちらかと言うと彼の技は『柔術』という危険な武術のものに近いのだと、インターネットで調べて知った。
「あと相撲部。なんか例の事件の噂を聞いたらしくて、部長が入れって」
「え、二個も誘われてるの?」
「いや、何故かバレーボール部の熱血系の先生からも誘われてる」
「うわぁ——アルトラのアタック、普通に怪我人でそうだなぁ……」
——多分、レシーバーの腕辺りが、こう……ポキっと。
……いじめられていた頃に、思い切りバレーボールをぶつけられる痛みは味わっていたので、彼の力によるアタックがどれほど恐ろしいものなのか、想像出来てしまった。
それでも、アルトラが部活に入るなら、私もマネージャーとして入部しようかな、などと考えているのが顔に出ていたのか、彼はにっこり笑いながら、私に宣言する。
「どこにも入らないよ、面倒くさいし」
——良かった。
バレー部がこの学校で一番危険な部活動になる未来は避けられたようだ。
それからすぐにホームルーム5分前のチャイム——あるいは誰かにとっての死の宣告が聞こえて来たので私たちはそれぞれの教室に向かった。
———————
そんな夏休み明け後の一週間で、アルトラが高校生を相手に大喧嘩をしたという噂は学年中に広がっているらしく、野次馬根性で私にも噂の話をしようと話しかけてくる同級生もいた。
「例の高校生ノックアウト事件の話なんだけど、素手で、しかも一人でやったって本当?」
ある日の昼休み、名前も顔も知らないやんちゃそうな男子二人組がそんなことを聞いてくる。
人に話しかけられ慣れていない——特に男子とはうまく話せない私は、おどおどしながらも彼らに答える。
「本当だよ、アルトラは私を守るために戦った」
「……マジかよ」
「パネェわ」
二人は顔を見合わせ、独自の言語と身振り手振りで、驚きを軽薄な笑いに昇華させながら、すぐに立ち去っていった。
中には本人に話しかける人もいて、昼休みにアルトラと一緒にいた時——女の子に話しかけられた際には、彼は貼り付けたかのようなぎこちない笑みを浮かべながら「ヒッシデ、タタカッタヨ」と、棒読みで受け答えをしていた。
アルトラ本人に尋ねる人の大半は、過去の噂については詳しく知らず、単にアルトラが『女の子のために戦ったヒーロー』だと思っている人も多いような印象だった。
同級生の不良たちも、放課後にアルトラの姿を見かけると逃げる様に去っていくようになり、アルトラの存在のお陰で『治安』が良くなったと感じている人も『裏掲示板』の書き込みを見る限り、少なくないようだった。
——そして、この短期間でいろいろな人と話すうちに、彼にも友達ができ始めたようで、私たち二人で話す機会は少なくなり始めていた。
それでも今日は、放課後に時間を作ってくれて、いつもの石製ベンチに座りながら、ゆっくり話をすることが出来た。
「んで、一日一行日記——あれを先生に見せたら、事件当日の日に『ハンバーグの作り方を教わった』って書いてあってさ」
「……書いたのアルトラじゃん」
「いやまあ……。それで先生にも『実践してどうする』って、爆笑しながら怒られたんだよね」
……そりゃそうでしょう。
シュールなブラックジョークに、笑っていいのかどうか悩んでいたが、結局その光景を想像した私は、隠すように笑うしかなかった。
「——そういえばアルトラ、再来週はテストだけど、テスト勉強ってしてる?」
私が期末テストに関する話題を出すと、アルトラの眉は笑顔のまま、ピクッとして固まる。
……ここ最近、彼は私を放ったらかしにして、友達と遊び呆けているようだ。
「あはは……してないや……」
「でしょうね! だから夏休み終わりに勉強会しようって言ったのに!」
「はい……言われました……」
大型犬のアルトラはしょぼんとした顔で、大げさにうつむく。
それからわざとらしい沈黙がしばらく続いてから、自然と二人とも笑顔になった。
「来週、いっぱい勉強会するからね」
「はい……」
「ところで、アルトラって前期中間テスト何点だったの?」
「えっと、219点……」
「えっ!?」
——失礼な話だが、あまりの低さに驚いてしまった。
私より明晰な思考を持ち、複雑な哲学的思考をする彼が、平均点390点のテストでそんな点数を取ったのか——最低でも、もう100点はあるものだと、勝手に思っていた。
——そっか、アルトラ、勉強苦手なんだ。
「その、小学五年生からまともに授業受けてなかったから、最初のテストではアルファベットの書き方も分かんなくって……」
「アルトラ。今日からテストまで毎日、帰ったら勉強会しよ。それと、明日明後日も一日一緒に勉強ね」
「えっ?」
「せっかくみんながアルトラに注目してるんだから、ここでアルトラがお馬鹿さんだと思われたら勿体ないでしょ!」
アルトラは、週末のゲーム三昧と、新しい友達からの評価を天秤に掛け始めたようで、石製の机にカバンを置いて頬杖を付き、考え始めた。
——こういう時のアルトラは、ご褒美で釣れば一瞬で食いつく。
「テストで平均点取れたら、一緒にカラオケでも行こうよ!」
「え、ほんと?」
担任の先生いわく、期末テストでの五教科の平均点は大体300点前後になるらしいので、かなり頑張る必要はあるが——それでも彼が一週間みっちり勉強をしたなら、平均点は取れるだろう。
「よし、そうと決まれば、今から家に行って勉強しよう」
簡単にやる気を出したアルトラは、カバンを持って元気よくベンチから立ち上がると、早速家に向かって歩き始めるのだった。
アルトラの家の、赤茶色の砂利が散りばめられた駐車場には、見慣れない背の高い黒色の軽自動車が停まっている。
——彼いわく、今日はお父さんが休みで家にいるとのことだった。
「なんか、緊張しちゃう……」
「んー、多分大丈夫だよ」
そう言いながら玄関を開けたアルトラは「ただいまー」と元気よく挨拶をすると、彼の声を一段低くした様な声が「おかえり」と返事をした。
「お、お邪魔します!」
まだ姿も見えない、アルトラのお父さんに挨拶をすると、いきなりリビングの方から、慌てて何かを用意するような音がした。
そして、熊みたいに大きいお父さんが玄関先までひょっこり出て来て「いらっしゃい!」と返事をしてくれた。
「いやー、ちょっと今から急用で、夕方過ぎまで外すから、ゆっくりしていってね」
アルトラより二周りか三周り——多分もっと大きな、彼とそっくりなお父さんは、すれ違って玄関のドアを潜りながら、アルトラに手招きをした。
「あ、先上がってて」
アルトラは玄関を出ていくお父さんに着いて行って、二人は外で何かを話し始めた。
彼はすぐに家の中に戻って来たかと思うと、何故か耳を真っ赤にさせながら、何も言わずに私が座っているリビングの椅子に腰掛けて、カバンをテーブルの下に置いた。
「な、なんかお父さんは勘違いしてるけど、気にしないでね」
——ああなんだ、あのお父さん、うちの母と同類か。
そう思うと、私は彼が何を話して来たのか大体想像が付いて、思わず笑ってしまった。
「いいから、ほら、早く勉強教えてよ!」
アルトラは照れを隠すように、勉強用のノートをテーブルの上に取り出すと、すぐに筆箱からシャープペンシルを手に取った。
慌てる彼を、私はテーブルに肘を付きながら、少し意地悪な気持ちでニヤニヤしつつ眺めるのだった。
——誰かを救いたいと思うとき。
私たちは誰かに、自分の理想を押し付けるんだと思う。
こうした方がいいよ、そうした方が幸せだよ、なんて言って、誰かの正義を捻じ曲げてしまうんだと思う。
そして、誰かに救われたいと思うとき。
私たちは、誰かの理想の姿になろうとするんだと思う。
——でも、私は誰かにとって、理想的な存在にはなれなかった。
きっと普通は、大切な人の理想になる努力をして、大切な人に必要とされるために変わろうとする。
それが『最適解としての正解』で、必要な道筋だから。
でも、私はどれだけ努力したって、失ったものを取り返すことはできない。
だから私は——大切な人の理想そのものを捻じ曲げて、必要とされようとした。
———————
第10話『反応』
まだジメジメとした暑さが残る夏休み明け、宿題が終わっていない生徒たちの阿鼻叫喚が学校中のそこかしこから響き、友達の宿題を借りて答えを書き写す光景があちこちで見られた。
そんな地獄を味わわないように、先手を打って行動していた私たちは、小雨が降る朝の中庭で、静かに話を始めたのだった。
「——ねえ、リン、部活誘われたんだけどどうしよう」
二つの校舎を繋ぐ連絡通路の屋根の下で、雨音と吹奏楽の合奏を聞きながら、アルトラは深刻そうな顔で私に報告した。
「ぶ、部活に誘われたの!?」
私たち二人はいわゆる『帰宅部』であり、友達もいないので今更部活に入る機会など、なかなかないのだが——なんと、アルトラは勧誘を受けたらしい。
「え、何部に誘われたの?」
「柔道部。道場の先輩経由で誘われた」
「……そういえば柔道やってるんだもんね」
あの事件の後で知ったが、彼が同級生や高校生をいなしたり投げたりしたのは、大半が柔道の技だったらしい。
——ただ、本来『柔道』では相手を左手で支えて『受け身』を取らせるのが正しいらしく、どちらかと言うと彼の技は『柔術』という危険な武術のものに近いのだと、インターネットで調べて知った。
「あと相撲部。なんか例の事件の噂を聞いたらしくて、部長が入れって」
「え、二個も誘われてるの?」
「いや、何故かバレーボール部の熱血系の先生からも誘われてる」
「うわぁ——アルトラのアタック、普通に怪我人でそうだなぁ……」
——多分、レシーバーの腕辺りが、こう……ポキっと。
……いじめられていた頃に、思い切りバレーボールをぶつけられる痛みは味わっていたので、彼の力によるアタックがどれほど恐ろしいものなのか、想像出来てしまった。
それでも、アルトラが部活に入るなら、私もマネージャーとして入部しようかな、などと考えているのが顔に出ていたのか、彼はにっこり笑いながら、私に宣言する。
「どこにも入らないよ、面倒くさいし」
——良かった。
バレー部がこの学校で一番危険な部活動になる未来は避けられたようだ。
それからすぐにホームルーム5分前のチャイム——あるいは誰かにとっての死の宣告が聞こえて来たので私たちはそれぞれの教室に向かった。
———————
そんな夏休み明け後の一週間で、アルトラが高校生を相手に大喧嘩をしたという噂は学年中に広がっているらしく、野次馬根性で私にも噂の話をしようと話しかけてくる同級生もいた。
「例の高校生ノックアウト事件の話なんだけど、素手で、しかも一人でやったって本当?」
ある日の昼休み、名前も顔も知らないやんちゃそうな男子二人組がそんなことを聞いてくる。
人に話しかけられ慣れていない——特に男子とはうまく話せない私は、おどおどしながらも彼らに答える。
「本当だよ、アルトラは私を守るために戦った」
「……マジかよ」
「パネェわ」
二人は顔を見合わせ、独自の言語と身振り手振りで、驚きを軽薄な笑いに昇華させながら、すぐに立ち去っていった。
中には本人に話しかける人もいて、昼休みにアルトラと一緒にいた時——女の子に話しかけられた際には、彼は貼り付けたかのようなぎこちない笑みを浮かべながら「ヒッシデ、タタカッタヨ」と、棒読みで受け答えをしていた。
アルトラ本人に尋ねる人の大半は、過去の噂については詳しく知らず、単にアルトラが『女の子のために戦ったヒーロー』だと思っている人も多いような印象だった。
同級生の不良たちも、放課後にアルトラの姿を見かけると逃げる様に去っていくようになり、アルトラの存在のお陰で『治安』が良くなったと感じている人も『裏掲示板』の書き込みを見る限り、少なくないようだった。
——そして、この短期間でいろいろな人と話すうちに、彼にも友達ができ始めたようで、私たち二人で話す機会は少なくなり始めていた。
それでも今日は、放課後に時間を作ってくれて、いつもの石製ベンチに座りながら、ゆっくり話をすることが出来た。
「んで、一日一行日記——あれを先生に見せたら、事件当日の日に『ハンバーグの作り方を教わった』って書いてあってさ」
「……書いたのアルトラじゃん」
「いやまあ……。それで先生にも『実践してどうする』って、爆笑しながら怒られたんだよね」
……そりゃそうでしょう。
シュールなブラックジョークに、笑っていいのかどうか悩んでいたが、結局その光景を想像した私は、隠すように笑うしかなかった。
「——そういえばアルトラ、再来週はテストだけど、テスト勉強ってしてる?」
私が期末テストに関する話題を出すと、アルトラの眉は笑顔のまま、ピクッとして固まる。
……ここ最近、彼は私を放ったらかしにして、友達と遊び呆けているようだ。
「あはは……してないや……」
「でしょうね! だから夏休み終わりに勉強会しようって言ったのに!」
「はい……言われました……」
大型犬のアルトラはしょぼんとした顔で、大げさにうつむく。
それからわざとらしい沈黙がしばらく続いてから、自然と二人とも笑顔になった。
「来週、いっぱい勉強会するからね」
「はい……」
「ところで、アルトラって前期中間テスト何点だったの?」
「えっと、219点……」
「えっ!?」
——失礼な話だが、あまりの低さに驚いてしまった。
私より明晰な思考を持ち、複雑な哲学的思考をする彼が、平均点390点のテストでそんな点数を取ったのか——最低でも、もう100点はあるものだと、勝手に思っていた。
——そっか、アルトラ、勉強苦手なんだ。
「その、小学五年生からまともに授業受けてなかったから、最初のテストではアルファベットの書き方も分かんなくって……」
「アルトラ。今日からテストまで毎日、帰ったら勉強会しよ。それと、明日明後日も一日一緒に勉強ね」
「えっ?」
「せっかくみんながアルトラに注目してるんだから、ここでアルトラがお馬鹿さんだと思われたら勿体ないでしょ!」
アルトラは、週末のゲーム三昧と、新しい友達からの評価を天秤に掛け始めたようで、石製の机にカバンを置いて頬杖を付き、考え始めた。
——こういう時のアルトラは、ご褒美で釣れば一瞬で食いつく。
「テストで平均点取れたら、一緒にカラオケでも行こうよ!」
「え、ほんと?」
担任の先生いわく、期末テストでの五教科の平均点は大体300点前後になるらしいので、かなり頑張る必要はあるが——それでも彼が一週間みっちり勉強をしたなら、平均点は取れるだろう。
「よし、そうと決まれば、今から家に行って勉強しよう」
簡単にやる気を出したアルトラは、カバンを持って元気よくベンチから立ち上がると、早速家に向かって歩き始めるのだった。
アルトラの家の、赤茶色の砂利が散りばめられた駐車場には、見慣れない背の高い黒色の軽自動車が停まっている。
——彼いわく、今日はお父さんが休みで家にいるとのことだった。
「なんか、緊張しちゃう……」
「んー、多分大丈夫だよ」
そう言いながら玄関を開けたアルトラは「ただいまー」と元気よく挨拶をすると、彼の声を一段低くした様な声が「おかえり」と返事をした。
「お、お邪魔します!」
まだ姿も見えない、アルトラのお父さんに挨拶をすると、いきなりリビングの方から、慌てて何かを用意するような音がした。
そして、熊みたいに大きいお父さんが玄関先までひょっこり出て来て「いらっしゃい!」と返事をしてくれた。
「いやー、ちょっと今から急用で、夕方過ぎまで外すから、ゆっくりしていってね」
アルトラより二周りか三周り——多分もっと大きな、彼とそっくりなお父さんは、すれ違って玄関のドアを潜りながら、アルトラに手招きをした。
「あ、先上がってて」
アルトラは玄関を出ていくお父さんに着いて行って、二人は外で何かを話し始めた。
彼はすぐに家の中に戻って来たかと思うと、何故か耳を真っ赤にさせながら、何も言わずに私が座っているリビングの椅子に腰掛けて、カバンをテーブルの下に置いた。
「な、なんかお父さんは勘違いしてるけど、気にしないでね」
——ああなんだ、あのお父さん、うちの母と同類か。
そう思うと、私は彼が何を話して来たのか大体想像が付いて、思わず笑ってしまった。
「いいから、ほら、早く勉強教えてよ!」
アルトラは照れを隠すように、勉強用のノートをテーブルの上に取り出すと、すぐに筆箱からシャープペンシルを手に取った。
慌てる彼を、私はテーブルに肘を付きながら、少し意地悪な気持ちでニヤニヤしつつ眺めるのだった。
第11話『テスト』
第11話『テスト』
誰一人として言葉を発しない静かな教室では、ただ扇風機の音と、カツカツカツ、とシャープペンシルたちが文字を書く音、それと誰かが一番乗りで問題用紙をひっくり返す音だけが響いていた。
問題を解くたびに、これは教えた、これならアルトラも解けるはず、と、自分のこと以上にアルトラの頑張りを気にしてしまうが、自分自身が分からない問題もほとんどなく、集中力にもさほど影響は無かった。
そんなテスト週間は問題なく終わり、その間も毎日アルトラに勉強を教えたが、彼は日に日にぐったりしていき、テストの点数にもあまり自信はないようだった。
そして、その翌週には順次テスト返却が行われていき、柔剣道場の裏口側にある通路には、学年順位が張り出される。
「うぅ……結局平均点取れてない……」
その順位板《スコアボード》の前にある、漆塗りの木製——というより、うねった木そのものの形をしたベンチに座りながら、アルトラは悲しそうな顔で、受け取りたての48点の英語のテスト用紙を私に見せた。
「でも、惜しかったよ。あと20点ちょっとだったから!」
平均点は約303点で、アルトラの五教科の合計点数は280点、中間テストの219点に比べれば、かなり点を伸ばしたと言える。
——勉強を教えた甲斐があった、と言える程に、アルトラは頑張ったのだ。
「というか、リン凄いね、学年順位10位って!」
アルトラは一転して目をキラキラさせ、順位板《スコアボード》の一番左、上から10番目に名前が載った私のことを褒めてくれた。
——しかし中間テストは一応満点で、同率1位だった人たちに遅れを取った、というか頭の出来が違うことを認識させられた気がして、私自身は少しへこんでいた。
「えっと、社会がどうしても点数取れなくって……英語もケアレスミスで満点取れなかったし……」
|その点数《4 7 2点》に満足していないという発言に対して、ああもう次元が違う、といった顔で、アルトラは口をポカーンと開けたまま、反応に困ったのか小さく拍手をし始めた。
——実際、上位6人が500点満点なのに、そこから大きく離されて|472点《こんな点数》で10位と言われても、かえって自信を失うだけだった。
「ごめん、僕に勉強なんて教えてなければ、もっと点取れてた……?」
「そ、そんなことないから大丈夫、むしろ一緒に勉強してくれたから、忘れずに済んだところもあったし!」
「ほんと? 足引っ張ってない……?」
アルトラがすごく申し訳なさそうに——上目遣いで、まるで仔犬みたいにそう言ったので、私は誘惑に勝てず、出会った頃よりだいぶ髪の伸びた、彼の頭を少し激しく撫でた。
——遂にやってしまった、でも、沢山勉強を教えたし、これくらいのご褒美は許されるだろう。
「わ、リン、やめてよ人前で……」
アルトラは反射的に一瞬抵抗したが——隣に座った私にいい子いい子されるのが満更でもないのか、かえって少し甘えるように頭を差し出した。
「アルトラ、勉強頑張ったね、今度カラオケ行こうね!」
「え、ほんと? いいの?」
「うん、頑張ったから、ご褒美だよ!」
——ご褒美だよ。私にとっての。
嬉しそうに顔を上げたアルトラに、私も笑顔を零しながら、薄目を瞑った彼のおでこを撫で続けた。
———————
それからの二週間で、気が付けば公園のポプラは紅葉し始めており、それにあわせて街ゆく人の服装も、暖かそうなものに変わりつつあった。
自転車に跨る私服姿のアルトラは、フード付きで暖かそうな灰色の長袖ジャンパーを着ており、一足先に冬支度を始めているようだった。
「今日から10月かぁ、なんか実感ないなぁ」
寒そうに手に息を吐いて、しみじみと話す彼の言うとおり——確かに、もう出会ってから3ヶ月半も経ったという実感はなかった。
それでも、意外に寒がりな彼の新たな一面を見つける度に、私は嬉しくなって——既にいろいろなことがあったが、どれも一瞬で過ぎていったような気がしていた。
「楽しい時間は過ぎるのが早いって、アインシュタインも言ってたもん」
「——まあ、あれはみんなが理解しないから面倒になって言っただけらしいけど」
変な雑学が多いアルトラは、道中でそんな豆知識を披露するのだった。
イオンのすぐ近くにあるカラオケ屋の予約時間に遅れないよう、田んぼを抜け、踏切を超え、途中コンビニに寄って、おにぎりとお茶を買って、レジ袋をカゴに入れて走り——無事に時間までに到着した。
「二名でご予約の赤星《あかほし》様。フリータイムの学生カップル割でよろしいですか?」
「かっ、カップル?」
後ろで予約内容を聞いていたアルトラは、裏返りそうな声でそう言う。
——かわいい。
一瞬、彼をからかいたくなったが——あまり浮かれて、彼のことを汚してしまうのも嫌だったので、私はあくまで冷静に、これがあくまで節約術《ライフハック》であることを伝えた。
「その方が安くなるからね」
「な、なるほど……流石リン、賢い……」
私との関係が、ちゃんと友人のままであることを確認したら彼は、胸を撫で下ろしたようだった。
私にとってアルトラは、唯一で、一番の友達——それ以上に踏み込むことは許されない、聖域だった。
「これ、男友達と来ても適用されないのかな」
「……流石に同性だと厳しいんじゃない?」
「うーん、先週の三連休で、今度また友達とどこか遊びに行くかって話になってるんだけど、大人しくゲーセンでも行くか」
コンビニの袋をガサガサと鳴らしつつ階段を登りながら、アルトラは新しい友達との予定を立て始める。
そうか——これからはまた、土日もなかなか彼と会えなくなってしまうのか。
そう思うと、彼がみんなに受け入れられて嬉しいやら、寂しいやら——複雑な気持ちだった。
「私も、ちょっと疎遠になってたクラスメイトの人たちと、最近またお話するようになってさ」
夏祭りのあの日、私を置いて帰ってしまったあの二人も、ここ最近はアルトラが本当はどんな人で、どうしてそれが見抜けたのか、なんて話をするようになっていた。
——勝手なものだ、人に利用価値があるときだけ親切にしてくれる彼女たちを、私はもう友達だとは思っていない。
アルトラは階段を登ってすぐ左にある、少し肌寒い205号室の電気を付けながら、私が部屋に入ると扉を閉めた。
一瞬、あの日の記憶がフラッシュバックしたが——そこにいるのがアルトラであると、しっかり認識している私は取り乱さず、向かいの席に座った彼に微笑みかけた。
「リンも、楽しめてるようで何よりだよ」
アルトラは予約用の機械を手にとって、嬉しそうにそう言う。
——でも違うよ、私は日常なんて楽しくない。
私が楽しんでいるのは、あなたとの時間だけだから。
「……なんって言ったらいいんだろう。中にはアルトラのことを、どうしても悪く言いたがる人もいて、複雑」
私に話しかける人の中には『|あいつ《アルトラ》に幸せになる資格があるのか』だとか『悪いことをしたのにちやほやされててムカつく』と——本人ではなく、私に言う人もいた。
「そう、なんだ。ごめん、嫌な気分にさせて」
自分ばかり楽しんでいて申し訳ない、といった様子で彼は少しうつむき——やはり私を事件に巻き込んだことについて、まだ後悔している様子だった。
——でも、今の私にとってあの事件は、アルトラとの絆を一気に深められた、出来事に過ぎない。
「ごめん、私も楽しいよ。あいつらに嫌なことをされなくなったし、アルトラと一緒に居ても全員から冷たい目で見られることもないし——」
——何より、一番近くで彼の楽しそうな姿を見ているのが、私の最高の幸せだった。
汚してしまいたい。
彼のすべてを奪い取ってしまいたい。
けれど、日常に回帰しようとする彼を応援したい気持ちが、そんな私の汚い欲望を押さえ込んでいた。
「——ねえ、歌おうよ。せっかくカラオケに来たんだから、アルトラの歌声聞いてみたい!」
黒っぽい気持ちをかき消すためにそう言いながら、私は黒い机を挟んで反対側に座るアルトラに、マイクを一本渡し「何か歌って」と彼にお願いした。
「えっと、ボカロだけど、良い?」
そんな私の気持ちを知る由もない彼は、先日私が音ゲーでプレイした曲を入れたのだった。
「キスをした、この部屋の隅で〜」
立ち上がった彼の歌声は力強く——音程はそこまで正しくないが、身振り手振りをしながら感情を乗せた歌い方で、私は好きだった。
そんなアルトラの歌を聴いていると、私の体も自然と動く。彼はテレビに釘付けになりながら歌っているが、その横で私も腕を動かし、彼と同じように情景を感じながら、小さな声で歌詞を口ずさんでいた。
「……あ、採点入れ忘れてた」
歌い終わると彼は座りつつ、そんなことを言いながら「採点入れてもいい?」と確認を取ってきたので『もちろん』というジェスチャーをすると、画面にはランキングが分かる採点の画面が映し出された。
「次、私が入れてもいい?」
「もちろんいいよ、順番に歌おう」
アルトラは嬉しそうに、柔らかそうなほっぺたを持ち上げ、私の方に予約用の機械を差し出す。
そして彼から予約機を受け取った私は、最新のボカロ曲を予約した。
「おお、『千本桜』じゃん。知ってる知ってる!」
「えへへ、実は今日のために、ちょっとだけ練習してきたんだよね」
期末テストが終わった直後に投稿されたこの曲は、あっという間に界隈で流行り、採点画面のトップ3は全員100点という、人気曲あるあるの状況になっていた。
「……どうやったら100点なんてだせるんだろうね」
「うーん。楽しく歌えれば、私はそれで良いかな」
「それもそっか——頑張っても全部が点になるわけじゃないし」
テストのことを思い出しているのか、アルトラは柄がたくさん入った紫色の壁の方を向きながら、そう呟いたのだった。
誰一人として言葉を発しない静かな教室では、ただ扇風機の音と、カツカツカツ、とシャープペンシルたちが文字を書く音、それと誰かが一番乗りで問題用紙をひっくり返す音だけが響いていた。
問題を解くたびに、これは教えた、これならアルトラも解けるはず、と、自分のこと以上にアルトラの頑張りを気にしてしまうが、自分自身が分からない問題もほとんどなく、集中力にもさほど影響は無かった。
そんなテスト週間は問題なく終わり、その間も毎日アルトラに勉強を教えたが、彼は日に日にぐったりしていき、テストの点数にもあまり自信はないようだった。
そして、その翌週には順次テスト返却が行われていき、柔剣道場の裏口側にある通路には、学年順位が張り出される。
「うぅ……結局平均点取れてない……」
その順位板《スコアボード》の前にある、漆塗りの木製——というより、うねった木そのものの形をしたベンチに座りながら、アルトラは悲しそうな顔で、受け取りたての48点の英語のテスト用紙を私に見せた。
「でも、惜しかったよ。あと20点ちょっとだったから!」
平均点は約303点で、アルトラの五教科の合計点数は280点、中間テストの219点に比べれば、かなり点を伸ばしたと言える。
——勉強を教えた甲斐があった、と言える程に、アルトラは頑張ったのだ。
「というか、リン凄いね、学年順位10位って!」
アルトラは一転して目をキラキラさせ、順位板《スコアボード》の一番左、上から10番目に名前が載った私のことを褒めてくれた。
——しかし中間テストは一応満点で、同率1位だった人たちに遅れを取った、というか頭の出来が違うことを認識させられた気がして、私自身は少しへこんでいた。
「えっと、社会がどうしても点数取れなくって……英語もケアレスミスで満点取れなかったし……」
|その点数《4 7 2点》に満足していないという発言に対して、ああもう次元が違う、といった顔で、アルトラは口をポカーンと開けたまま、反応に困ったのか小さく拍手をし始めた。
——実際、上位6人が500点満点なのに、そこから大きく離されて|472点《こんな点数》で10位と言われても、かえって自信を失うだけだった。
「ごめん、僕に勉強なんて教えてなければ、もっと点取れてた……?」
「そ、そんなことないから大丈夫、むしろ一緒に勉強してくれたから、忘れずに済んだところもあったし!」
「ほんと? 足引っ張ってない……?」
アルトラがすごく申し訳なさそうに——上目遣いで、まるで仔犬みたいにそう言ったので、私は誘惑に勝てず、出会った頃よりだいぶ髪の伸びた、彼の頭を少し激しく撫でた。
——遂にやってしまった、でも、沢山勉強を教えたし、これくらいのご褒美は許されるだろう。
「わ、リン、やめてよ人前で……」
アルトラは反射的に一瞬抵抗したが——隣に座った私にいい子いい子されるのが満更でもないのか、かえって少し甘えるように頭を差し出した。
「アルトラ、勉強頑張ったね、今度カラオケ行こうね!」
「え、ほんと? いいの?」
「うん、頑張ったから、ご褒美だよ!」
——ご褒美だよ。私にとっての。
嬉しそうに顔を上げたアルトラに、私も笑顔を零しながら、薄目を瞑った彼のおでこを撫で続けた。
———————
それからの二週間で、気が付けば公園のポプラは紅葉し始めており、それにあわせて街ゆく人の服装も、暖かそうなものに変わりつつあった。
自転車に跨る私服姿のアルトラは、フード付きで暖かそうな灰色の長袖ジャンパーを着ており、一足先に冬支度を始めているようだった。
「今日から10月かぁ、なんか実感ないなぁ」
寒そうに手に息を吐いて、しみじみと話す彼の言うとおり——確かに、もう出会ってから3ヶ月半も経ったという実感はなかった。
それでも、意外に寒がりな彼の新たな一面を見つける度に、私は嬉しくなって——既にいろいろなことがあったが、どれも一瞬で過ぎていったような気がしていた。
「楽しい時間は過ぎるのが早いって、アインシュタインも言ってたもん」
「——まあ、あれはみんなが理解しないから面倒になって言っただけらしいけど」
変な雑学が多いアルトラは、道中でそんな豆知識を披露するのだった。
イオンのすぐ近くにあるカラオケ屋の予約時間に遅れないよう、田んぼを抜け、踏切を超え、途中コンビニに寄って、おにぎりとお茶を買って、レジ袋をカゴに入れて走り——無事に時間までに到着した。
「二名でご予約の赤星《あかほし》様。フリータイムの学生カップル割でよろしいですか?」
「かっ、カップル?」
後ろで予約内容を聞いていたアルトラは、裏返りそうな声でそう言う。
——かわいい。
一瞬、彼をからかいたくなったが——あまり浮かれて、彼のことを汚してしまうのも嫌だったので、私はあくまで冷静に、これがあくまで節約術《ライフハック》であることを伝えた。
「その方が安くなるからね」
「な、なるほど……流石リン、賢い……」
私との関係が、ちゃんと友人のままであることを確認したら彼は、胸を撫で下ろしたようだった。
私にとってアルトラは、唯一で、一番の友達——それ以上に踏み込むことは許されない、聖域だった。
「これ、男友達と来ても適用されないのかな」
「……流石に同性だと厳しいんじゃない?」
「うーん、先週の三連休で、今度また友達とどこか遊びに行くかって話になってるんだけど、大人しくゲーセンでも行くか」
コンビニの袋をガサガサと鳴らしつつ階段を登りながら、アルトラは新しい友達との予定を立て始める。
そうか——これからはまた、土日もなかなか彼と会えなくなってしまうのか。
そう思うと、彼がみんなに受け入れられて嬉しいやら、寂しいやら——複雑な気持ちだった。
「私も、ちょっと疎遠になってたクラスメイトの人たちと、最近またお話するようになってさ」
夏祭りのあの日、私を置いて帰ってしまったあの二人も、ここ最近はアルトラが本当はどんな人で、どうしてそれが見抜けたのか、なんて話をするようになっていた。
——勝手なものだ、人に利用価値があるときだけ親切にしてくれる彼女たちを、私はもう友達だとは思っていない。
アルトラは階段を登ってすぐ左にある、少し肌寒い205号室の電気を付けながら、私が部屋に入ると扉を閉めた。
一瞬、あの日の記憶がフラッシュバックしたが——そこにいるのがアルトラであると、しっかり認識している私は取り乱さず、向かいの席に座った彼に微笑みかけた。
「リンも、楽しめてるようで何よりだよ」
アルトラは予約用の機械を手にとって、嬉しそうにそう言う。
——でも違うよ、私は日常なんて楽しくない。
私が楽しんでいるのは、あなたとの時間だけだから。
「……なんって言ったらいいんだろう。中にはアルトラのことを、どうしても悪く言いたがる人もいて、複雑」
私に話しかける人の中には『|あいつ《アルトラ》に幸せになる資格があるのか』だとか『悪いことをしたのにちやほやされててムカつく』と——本人ではなく、私に言う人もいた。
「そう、なんだ。ごめん、嫌な気分にさせて」
自分ばかり楽しんでいて申し訳ない、といった様子で彼は少しうつむき——やはり私を事件に巻き込んだことについて、まだ後悔している様子だった。
——でも、今の私にとってあの事件は、アルトラとの絆を一気に深められた、出来事に過ぎない。
「ごめん、私も楽しいよ。あいつらに嫌なことをされなくなったし、アルトラと一緒に居ても全員から冷たい目で見られることもないし——」
——何より、一番近くで彼の楽しそうな姿を見ているのが、私の最高の幸せだった。
汚してしまいたい。
彼のすべてを奪い取ってしまいたい。
けれど、日常に回帰しようとする彼を応援したい気持ちが、そんな私の汚い欲望を押さえ込んでいた。
「——ねえ、歌おうよ。せっかくカラオケに来たんだから、アルトラの歌声聞いてみたい!」
黒っぽい気持ちをかき消すためにそう言いながら、私は黒い机を挟んで反対側に座るアルトラに、マイクを一本渡し「何か歌って」と彼にお願いした。
「えっと、ボカロだけど、良い?」
そんな私の気持ちを知る由もない彼は、先日私が音ゲーでプレイした曲を入れたのだった。
「キスをした、この部屋の隅で〜」
立ち上がった彼の歌声は力強く——音程はそこまで正しくないが、身振り手振りをしながら感情を乗せた歌い方で、私は好きだった。
そんなアルトラの歌を聴いていると、私の体も自然と動く。彼はテレビに釘付けになりながら歌っているが、その横で私も腕を動かし、彼と同じように情景を感じながら、小さな声で歌詞を口ずさんでいた。
「……あ、採点入れ忘れてた」
歌い終わると彼は座りつつ、そんなことを言いながら「採点入れてもいい?」と確認を取ってきたので『もちろん』というジェスチャーをすると、画面にはランキングが分かる採点の画面が映し出された。
「次、私が入れてもいい?」
「もちろんいいよ、順番に歌おう」
アルトラは嬉しそうに、柔らかそうなほっぺたを持ち上げ、私の方に予約用の機械を差し出す。
そして彼から予約機を受け取った私は、最新のボカロ曲を予約した。
「おお、『千本桜』じゃん。知ってる知ってる!」
「えへへ、実は今日のために、ちょっとだけ練習してきたんだよね」
期末テストが終わった直後に投稿されたこの曲は、あっという間に界隈で流行り、採点画面のトップ3は全員100点という、人気曲あるあるの状況になっていた。
「……どうやったら100点なんてだせるんだろうね」
「うーん。楽しく歌えれば、私はそれで良いかな」
「それもそっか——頑張っても全部が点になるわけじゃないし」
テストのことを思い出しているのか、アルトラは柄がたくさん入った紫色の壁の方を向きながら、そう呟いたのだった。
第12話『誰にも気づかれないように』
第12話『誰にも気付かれないように』
暑さはすっかり消え去り、冷たい風が紅葉した葉を鳴らし始めた頃には、公園を散歩する人も増え始め、二人並んで帰る私たちに、老夫婦は微笑みながら「寒くなったね」と話しかける。
まだそこまで寒いわけでもないのに、髪を切ったアルトラはすっかり防寒具を着込み、夏のクーラーよりまだ暖かい気温を嫌がっていた。
「リン、いきなり呼んでごめんよ」
家に上がって、リビングの椅子に座るなり、アルトラは私を誘ったことに対して——出会った頃のような寂しそうな雰囲気で謝った。
「大丈夫だよ、久しぶりに会ってお話出来て嬉しいから」
この頃、アルトラは新しい友達と遊ぶようになり、私とはあまり遊んでくれなくなっていた。
しかし、ここ一週間でメッセージのやり取りの回数が増えたかと思うと——昨晩急に『明日会えないかな』と連絡が来たのだ。
呼ばれた理由については、おおかた予想が付く——きっと、新しい友達も彼の過去の噂を知ってしまったのだろう。
彼の過去から、ありもしない本性を想像し、簡単に見捨てる——
そんな人たちに、アルトラは『捨てられて』しまったのだろう。
「——助けて、リン」
説明も過程も全て飛ばして、アルトラは泣きそうな顔でいきなり私にそう言った。
——いいよ、アルトラ。
私が助けてあげる、私が満たしてあげる。
「お願い、居なくならないで……」
——まさか、私がアルトラの元から居なくなるなんて、彼は本気でそう思っているのだろうか。
私にとって、唯一で、一番大切な友達。
私がアルトラを手放すなんて——あり得ない。
「どうしたの、絶対に居なくならないよ」
私は笑顔で、テーブルの向こうの彼のもとまで歩き、泣き出したアルトラの、少しチクチクする頭を撫でた。
しかし、かえってその行為が彼の胸の中にあったものを刺激したのか、アルトラは嗚咽し始める。
「……リンの親だって、僕と一緒にいることを、嫌がってるんでしょう?」
「お父さんは、ね」
「みんなもそうなんだ、聞きたいって言われて昔の話をすると、僕を怖がって避けるようになる——きっとリンも、『想像』してしまったら、それ以上は僕と一緒にいられない……」
——彼の過去を知る人はみな、彼の機嫌を損ねることを恐れている。
普段の彼の姿など関係なく、彼が衝動的に暴力に走るという事実は、誰もが——私ですら恐れることであり、暴力の対象が自分になるかも知れないと『想像』してしまえば——普通は積極的に関わろうとはしないだろう。
「私はね、アルトラが私を殴ったり蹴ったりするなんて、思ってないよ」
「でも、そうなった時の痛みを想像してしまったら、嫌われるんじゃないかって……」
——もちろん、私も恐ろしい想像をしたことがないわけではない。
ゲームセンターで初めて彼の暴力を見た後——正気を失った彼に睨まれた後で、あの狂気が私に向けられたなら、私は何の抵抗も出来ないまま、きっと死ぬまで殴られるんだろう、と。
……そして、万に一つそうなったとしても、私はそれでも良いと、アルトラが私を殺してしまいたいと思うなら、殺されたって良いと——殺されてしまいたいと、今は思っている。
「私はもう、どうせ半分死んでるから。アルトラがそう望むのなら痛い思いをしたっていいし、殺してくれるなら、喜んで死ねるよ」
——あの日、私の身体が汚されて、体中が殴られたり、締められた痛みで苦しかった日から……私は何度死んでしまおうと思ったのか分からない。
しばらくは自分の身体を見る度にあの恐怖を思い出し、手首の内側の傷は数え切れない程になり、アルトラと出会うまで、私はずっと、早く死んでしまいたいと願っていた。
アルトラは驚いたような表情で私を見上げ、余計に泣きそうになりながら、下唇を噛んでいる。
——知ってるよ、アルトラは、私のことを傷付けたりしない。
……でも私は、アルトラに傷付けられるのを、心のどこかで望んでいる。
——そうすれば、彼を手に入れられるから。
「あの日、ね。アルトラに話しかけたあの日、もしかしたら私、本当は傷付けて欲しかったのかも知れないの」
明るい世界は、汚れた私には合わなかった——
世界が誰かを救おうとしないなら、次にまた私が標的になったとき、きっと誰も助けてくれない。
……今思えば、あの夏祭りの日、彼に話しかけたのも、ただの自暴自棄だったのかも知れない。
明るいところへ向かうほど、自分の汚れが気になって、影を求めて歩いてしまう——私はそんな人間だ。
……こんな世界で、一時的に傷を負わずに生きるくらいなら、いっそ傷付いてでも——むしろ傷付きながら『誰かの痛みに寄り添った』という盾で、自分が影に落ちていこうとするのを、正当化しようとしていたのだ。
……でも、彼はそんな人じゃなかった。
私と同じ泥の中で、必死で足掻いて、日常を手に入れようとしていた。
そんな彼が輝いて見えたから、私はあの時——彼を私と同じように汚すのを、やめたんだ。
彼の頭を撫でているうちに、私も涙が止まらなくなってしまった。
鼻をすすりながら、涙が床に落ちるのにも構わず、私はそれでも頭を撫でながら、胸の奥の一番汚い部分から、言葉を放つ。
「ずっと、死にたかった」
私は、悲しんで欲しいだけなのかも知れない。
汚れた私を、哀れんでほしいだけなのかも知れない。
だから——こうなることを予見していたのに、私は《正義の証明》を行わなかった。
大粒の涙がボロボロと流れて、床に水滴が落ちる音がするたびに、彼と離れなくてはいけないことを『想像』してしまい、どんどん悲しさは大きくなり、遂に彼の頭を撫でる手も止まってしまった。
——お願い、アルトラ。あなたこそ、居なくならないで。
「リン……ごめん……」
アルトラは隣に立つ私の方を向いて座り直し、私を泣かせてしまったことを謝る。
——でも違う、私は今、死にたくなんかない。
あなたが側にいる限り、私は何があっても消えたりしない。
「ねえ、アルトラ、私は居なくならないよ。だからもう、一緒にいられないなんて、言わないで」
——私は、アルトラに救われている。
不良たちを遠ざけてくれたことはもちろん、一番の友達として、心を打ち明け合える親友として、私は彼の存在に救われている。
その為に生きたいと、頑張りたいと思える程に——
——私は、アルトラを愛している。
まだ彼には伝えられないし、私が彼に捧げられるものなんて、それこそ命くらいしかないのだから、私には彼と結ばれる資格なんて——きっとないけれど。
「リン、お願い。これからもずっと——友達でいて」
それでも、私はアルトラの友達であり続ける。
彼の孤独に寄り添い、幸せを願い、一番近くで彼の横顔を見ていたい。
——アルトラ、大好きだよ。
そう伝えられたなら、どれだけ救われるんだろう、どれだけ自分を許せるんだろう。
でもそんなことを伝えるのが許されない程に、私は汚れている。
「——こちらこそ、ずっと親友だよ」
……勇気がないから資格がない。
汚れた私には、勇気を持つ権利すらない。
だから、せめて彼の隣で笑っていたい。
それくらいは許してほしい、あなたの一番近くに居続けることを、許してほしい——
だから——ごめんなさい、アルトラ。
私はやっぱり、あなたがどこかに行ってしまうのを、防がなくちゃいけない。
——この時、私の本当の気持ちを伝えていれば。
彼に愛していると伝えていれば。
それでも、どうしようもないくらいに汚れた私の心は、それを許してはくれなかった。
二人がこれからも友人であり続けることを確認し、私はもう一度アルトラの頭を撫でた後で椅子に戻り、問題の解決方法について話すことにした。
「お友達がアルトラを避けるようになったのは、アルトラの噂が不必要に広まっている上に、自分でその裏付けをしてるからなんじゃないかな」
彼のことだ、きっと友達に過去の暴力事件の話を、まるで武勇伝でも語るかの様に『誇り』を持って話しているのだろう。
——それも、その裏にある動機を隠したまま。
「うん、それはあるかも……」
「やっぱり。なら、過去のことはもう話さずにおいた方がいいと思うな」
過去を泣かなくていいようにするには、その『誇り』を忘れて、誰にも気付かれないように、その過去を隠してしまった方がいいだろう。
「でもそれじゃあ、いつか誰かがまた噂を広めて、同じことになるんじゃ……」
「うん。でも、自分からアルトラが『暴れると怖い人』だって喧伝するより、まだ本当かどうか分からない噂の方がマシだと思う」
私の提案に、アルトラは納得がいっていないようで、こめかみに手を置いて首を傾げている。
——とはいえ、私もこの案はそんなに上手く行くはずがないと思っている。
本命の案は、アルトラが絶対に嫌がる案だが——最も説得力がある『事実』だった。
「もう一つの案は、私の過去——あいつらにレイプされて、その動画を当時の担任が買っていて、アルトラはそれを隠すために戦って、私のためにもその事実を話すことが出来なかったって、正直に話すことかな」
——彼の暴力のルーツ。
私が『彼をけしかけた黒幕』であったと喧伝し、彼の正義を証明する。
私の提案を聞いたアルトラは、目を丸くしながら勢い良く息を吸って驚愕した。
「でもそれじゃあ、何のためにリンがあいつらのイジメを耐えていたのか分からないし、下手をしたら……写真をばら撒かれる」
アルトラは、それは駄目だと必死に首を振り、それならまだ無視されている方がマシだと言った。
——ああ、私は本当に、汚い女だ。
「ねえ、アルトラ。私は別に、アルトラのためになら、裸を見られたって恥ずかしくない、だから……」
「無理だ、リンにそんな思いをさせるくらいなら別に僕は一人でもいい」
アルトラは机に手を置いて身を乗り出しながら、予想通り私の案に反対した。
——ごめんね、アルトラ。
でも、どっちを選んでも、私の勝ちなんだ。
「……すぐに決めなくても良いけど、どちらにしてもいつかは、私の過去も暴かれるかも知れないから」
写真が出てくるなら、むしろ《正義の証明》に『真実味』を帯びさせられるし、私がどうなろうとアルトラが幸せになれるのなら、私はそれでいい。
あるいは、彼が自らの意思で《正義の証明》を諦め、過去に囚われたまま、私と二人きりで居続けてくれるのなら——
彼さえ手に入るのなら。
なんだっていい。
暑さはすっかり消え去り、冷たい風が紅葉した葉を鳴らし始めた頃には、公園を散歩する人も増え始め、二人並んで帰る私たちに、老夫婦は微笑みながら「寒くなったね」と話しかける。
まだそこまで寒いわけでもないのに、髪を切ったアルトラはすっかり防寒具を着込み、夏のクーラーよりまだ暖かい気温を嫌がっていた。
「リン、いきなり呼んでごめんよ」
家に上がって、リビングの椅子に座るなり、アルトラは私を誘ったことに対して——出会った頃のような寂しそうな雰囲気で謝った。
「大丈夫だよ、久しぶりに会ってお話出来て嬉しいから」
この頃、アルトラは新しい友達と遊ぶようになり、私とはあまり遊んでくれなくなっていた。
しかし、ここ一週間でメッセージのやり取りの回数が増えたかと思うと——昨晩急に『明日会えないかな』と連絡が来たのだ。
呼ばれた理由については、おおかた予想が付く——きっと、新しい友達も彼の過去の噂を知ってしまったのだろう。
彼の過去から、ありもしない本性を想像し、簡単に見捨てる——
そんな人たちに、アルトラは『捨てられて』しまったのだろう。
「——助けて、リン」
説明も過程も全て飛ばして、アルトラは泣きそうな顔でいきなり私にそう言った。
——いいよ、アルトラ。
私が助けてあげる、私が満たしてあげる。
「お願い、居なくならないで……」
——まさか、私がアルトラの元から居なくなるなんて、彼は本気でそう思っているのだろうか。
私にとって、唯一で、一番大切な友達。
私がアルトラを手放すなんて——あり得ない。
「どうしたの、絶対に居なくならないよ」
私は笑顔で、テーブルの向こうの彼のもとまで歩き、泣き出したアルトラの、少しチクチクする頭を撫でた。
しかし、かえってその行為が彼の胸の中にあったものを刺激したのか、アルトラは嗚咽し始める。
「……リンの親だって、僕と一緒にいることを、嫌がってるんでしょう?」
「お父さんは、ね」
「みんなもそうなんだ、聞きたいって言われて昔の話をすると、僕を怖がって避けるようになる——きっとリンも、『想像』してしまったら、それ以上は僕と一緒にいられない……」
——彼の過去を知る人はみな、彼の機嫌を損ねることを恐れている。
普段の彼の姿など関係なく、彼が衝動的に暴力に走るという事実は、誰もが——私ですら恐れることであり、暴力の対象が自分になるかも知れないと『想像』してしまえば——普通は積極的に関わろうとはしないだろう。
「私はね、アルトラが私を殴ったり蹴ったりするなんて、思ってないよ」
「でも、そうなった時の痛みを想像してしまったら、嫌われるんじゃないかって……」
——もちろん、私も恐ろしい想像をしたことがないわけではない。
ゲームセンターで初めて彼の暴力を見た後——正気を失った彼に睨まれた後で、あの狂気が私に向けられたなら、私は何の抵抗も出来ないまま、きっと死ぬまで殴られるんだろう、と。
……そして、万に一つそうなったとしても、私はそれでも良いと、アルトラが私を殺してしまいたいと思うなら、殺されたって良いと——殺されてしまいたいと、今は思っている。
「私はもう、どうせ半分死んでるから。アルトラがそう望むのなら痛い思いをしたっていいし、殺してくれるなら、喜んで死ねるよ」
——あの日、私の身体が汚されて、体中が殴られたり、締められた痛みで苦しかった日から……私は何度死んでしまおうと思ったのか分からない。
しばらくは自分の身体を見る度にあの恐怖を思い出し、手首の内側の傷は数え切れない程になり、アルトラと出会うまで、私はずっと、早く死んでしまいたいと願っていた。
アルトラは驚いたような表情で私を見上げ、余計に泣きそうになりながら、下唇を噛んでいる。
——知ってるよ、アルトラは、私のことを傷付けたりしない。
……でも私は、アルトラに傷付けられるのを、心のどこかで望んでいる。
——そうすれば、彼を手に入れられるから。
「あの日、ね。アルトラに話しかけたあの日、もしかしたら私、本当は傷付けて欲しかったのかも知れないの」
明るい世界は、汚れた私には合わなかった——
世界が誰かを救おうとしないなら、次にまた私が標的になったとき、きっと誰も助けてくれない。
……今思えば、あの夏祭りの日、彼に話しかけたのも、ただの自暴自棄だったのかも知れない。
明るいところへ向かうほど、自分の汚れが気になって、影を求めて歩いてしまう——私はそんな人間だ。
……こんな世界で、一時的に傷を負わずに生きるくらいなら、いっそ傷付いてでも——むしろ傷付きながら『誰かの痛みに寄り添った』という盾で、自分が影に落ちていこうとするのを、正当化しようとしていたのだ。
……でも、彼はそんな人じゃなかった。
私と同じ泥の中で、必死で足掻いて、日常を手に入れようとしていた。
そんな彼が輝いて見えたから、私はあの時——彼を私と同じように汚すのを、やめたんだ。
彼の頭を撫でているうちに、私も涙が止まらなくなってしまった。
鼻をすすりながら、涙が床に落ちるのにも構わず、私はそれでも頭を撫でながら、胸の奥の一番汚い部分から、言葉を放つ。
「ずっと、死にたかった」
私は、悲しんで欲しいだけなのかも知れない。
汚れた私を、哀れんでほしいだけなのかも知れない。
だから——こうなることを予見していたのに、私は《正義の証明》を行わなかった。
大粒の涙がボロボロと流れて、床に水滴が落ちる音がするたびに、彼と離れなくてはいけないことを『想像』してしまい、どんどん悲しさは大きくなり、遂に彼の頭を撫でる手も止まってしまった。
——お願い、アルトラ。あなたこそ、居なくならないで。
「リン……ごめん……」
アルトラは隣に立つ私の方を向いて座り直し、私を泣かせてしまったことを謝る。
——でも違う、私は今、死にたくなんかない。
あなたが側にいる限り、私は何があっても消えたりしない。
「ねえ、アルトラ、私は居なくならないよ。だからもう、一緒にいられないなんて、言わないで」
——私は、アルトラに救われている。
不良たちを遠ざけてくれたことはもちろん、一番の友達として、心を打ち明け合える親友として、私は彼の存在に救われている。
その為に生きたいと、頑張りたいと思える程に——
——私は、アルトラを愛している。
まだ彼には伝えられないし、私が彼に捧げられるものなんて、それこそ命くらいしかないのだから、私には彼と結ばれる資格なんて——きっとないけれど。
「リン、お願い。これからもずっと——友達でいて」
それでも、私はアルトラの友達であり続ける。
彼の孤独に寄り添い、幸せを願い、一番近くで彼の横顔を見ていたい。
——アルトラ、大好きだよ。
そう伝えられたなら、どれだけ救われるんだろう、どれだけ自分を許せるんだろう。
でもそんなことを伝えるのが許されない程に、私は汚れている。
「——こちらこそ、ずっと親友だよ」
……勇気がないから資格がない。
汚れた私には、勇気を持つ権利すらない。
だから、せめて彼の隣で笑っていたい。
それくらいは許してほしい、あなたの一番近くに居続けることを、許してほしい——
だから——ごめんなさい、アルトラ。
私はやっぱり、あなたがどこかに行ってしまうのを、防がなくちゃいけない。
——この時、私の本当の気持ちを伝えていれば。
彼に愛していると伝えていれば。
それでも、どうしようもないくらいに汚れた私の心は、それを許してはくれなかった。
二人がこれからも友人であり続けることを確認し、私はもう一度アルトラの頭を撫でた後で椅子に戻り、問題の解決方法について話すことにした。
「お友達がアルトラを避けるようになったのは、アルトラの噂が不必要に広まっている上に、自分でその裏付けをしてるからなんじゃないかな」
彼のことだ、きっと友達に過去の暴力事件の話を、まるで武勇伝でも語るかの様に『誇り』を持って話しているのだろう。
——それも、その裏にある動機を隠したまま。
「うん、それはあるかも……」
「やっぱり。なら、過去のことはもう話さずにおいた方がいいと思うな」
過去を泣かなくていいようにするには、その『誇り』を忘れて、誰にも気付かれないように、その過去を隠してしまった方がいいだろう。
「でもそれじゃあ、いつか誰かがまた噂を広めて、同じことになるんじゃ……」
「うん。でも、自分からアルトラが『暴れると怖い人』だって喧伝するより、まだ本当かどうか分からない噂の方がマシだと思う」
私の提案に、アルトラは納得がいっていないようで、こめかみに手を置いて首を傾げている。
——とはいえ、私もこの案はそんなに上手く行くはずがないと思っている。
本命の案は、アルトラが絶対に嫌がる案だが——最も説得力がある『事実』だった。
「もう一つの案は、私の過去——あいつらにレイプされて、その動画を当時の担任が買っていて、アルトラはそれを隠すために戦って、私のためにもその事実を話すことが出来なかったって、正直に話すことかな」
——彼の暴力のルーツ。
私が『彼をけしかけた黒幕』であったと喧伝し、彼の正義を証明する。
私の提案を聞いたアルトラは、目を丸くしながら勢い良く息を吸って驚愕した。
「でもそれじゃあ、何のためにリンがあいつらのイジメを耐えていたのか分からないし、下手をしたら……写真をばら撒かれる」
アルトラは、それは駄目だと必死に首を振り、それならまだ無視されている方がマシだと言った。
——ああ、私は本当に、汚い女だ。
「ねえ、アルトラ。私は別に、アルトラのためになら、裸を見られたって恥ずかしくない、だから……」
「無理だ、リンにそんな思いをさせるくらいなら別に僕は一人でもいい」
アルトラは机に手を置いて身を乗り出しながら、予想通り私の案に反対した。
——ごめんね、アルトラ。
でも、どっちを選んでも、私の勝ちなんだ。
「……すぐに決めなくても良いけど、どちらにしてもいつかは、私の過去も暴かれるかも知れないから」
写真が出てくるなら、むしろ《正義の証明》に『真実味』を帯びさせられるし、私がどうなろうとアルトラが幸せになれるのなら、私はそれでいい。
あるいは、彼が自らの意思で《正義の証明》を諦め、過去に囚われたまま、私と二人きりで居続けてくれるのなら——
彼さえ手に入るのなら。
なんだっていい。
第12.5話『幕間』秋祭り
第12.5話『幕間』
『秋祭り』
防寒具の下で、汗がにじみ出したのを感じながら階段の最後の一段を登り切ると、百人程度しか参加者のいない、小さな祭りが行われている。
10月最後の土曜日、近所の神社で行われる秋の収穫祭に、僕は一人でやって来ていた。
神社の祭りで『盆踊り』をするのが本当に宗教的に正しいのかは知らないが、ハロウィンのコスプレをして祭りに参加している子供たちを見ていると——まあそういうものか、と納得せざるを得ない。
……本当はリンと一緒に来る予定だったが、彼女はここ最近の冷え込みに耐えきれず、風邪を引いて寝込んでしまったらしい——だからあれ程、暖かくしたほうが良いと言っておいたのに。
少し前までは一人でいることが当たり前で、寂しさなんて、そこまで感じなかったのに、今日は何故だか、孤独を感じて仕方がなかった。
——先日、リンと今後の話をした際、事もあろうに、彼女は自らの辛い過去を、僕のために暴こうとしていることがわかった。
バカヒロをボコボコに殴り倒した事件、その背景にある動機を説明することで、あの日の暴力を『正当化』する《正義の証明》という計画。
その実行によって、『復讐』がネット上でばら撒かれることすら厭わないといった覚悟の彼女に、他の手段もまともに思い付かない僕は、非常に参っていた。
そもそも誰かが不当に酷い目にあっているのも嫌なのに、リンの裸の写真がみんなに見られると思うと——何故だが、胸が酷く痛むというか、どうにも許しがたい気持ちになる。
身内、というものがまともに出来たことはなかったが、きっとこれが『身内びいき』と言うやつなのだろう。
ゲームセンターの時もそうだったが、リンだけは何がなんでも守ってやりたいという気持ちになる。
……せめて、噂の拡大を防ぐために、過去を隠して生活していく。
そうすれば、リンのトラウマは刺激されず、時間が経てば噂だって消えてくれるかも知れない。
——だからと言って、今、目の前で行なわれようとしている悪行を、リンと自分自身のために『無視』しよう、という気にもならないが。
他校の生徒だろうか——いかにも不良っぽい、少し大柄な三人組が社の前の賽銭箱に棒を突っ込み、こんな祭りの日に、堂々と賽銭泥棒を働こうとしている。
近くにいる不甲斐ない大人たちは、見て見ぬふりをしていて、今まさに「ラッキー」と言いながら『取り餅棒』で千円札を抜き取った所から目を背けていた。
——まあ、仕方がない。
誰だって、不必要にトラブルに足を突っ込んで怪我はしたくないだろうから。
だから僕みたいな人間が現れるんだ——
「……おい、誰も見てないと思ってんのか?」
……話しかけてしまった。
今は大人しくして、これ以上悪い噂を作らないようにするべきだと、分かっているのに。
千円札をポケットにねじ込みながら、一つか二つ年上の——弱そうな男が、メンチを切ってくる。
「ああ? 何だテメェ」
取り巻き二人が一歩後ろに着いている様子を見るに、一回り体格が大きいこいつがリーダーだろう。
賽銭箱の前の階段を、わざとゆっくりと降りてくる不良たち。三人で威圧すれば、相手が引いていくと思っているのか。
リーダーが投げ捨てた、ガム付きの木製の棒が、カランカランと音を立てて、境内の前の砂利場に落ちる。
……雑魚が、武器を投げ捨てながら近寄ってくるなんて。
「はぁん——知らないんだな。俺がアルトラだって」
ポケットに手を突っ込んだまま、ガンを飛ばしてくる男を睨み返し、威嚇する。
……はぁ、ビビってくれないかなぁ。
誰か止めてくれないかなぁ、喧嘩になったら、またリンが悲しむだろうに。
リーダーの男は名前を出されても思い出せないらしく「だからどうしたんだよ」と言いながら頭突きをかましてくる。
……重心がなってないな。その気になれば、指一本でも倒せそうだ。
武術は——仮にやっていても、ボクシングをかじった程度だろう。
仕方がない、大事にならない程度に痛めつけて、追い払うしかないか——
ポケットから手を出して、ため息を漏らしながら重心を変え、リーダーの男を組み伏せようとしたところで——取り巻きの一人が、思い出したかのように驚いた顔をして、二人に話し始める。
「もしかして——トラって、あの高校生七人まとめて半殺しにしたって噂の……?」
「はっ!? 嘘だろ、あいつまだ院にいるんじゃねぇのかよ!?」
取り巻きたちがビビってくれた——噂に変な尾ひれは付いているようだが、ここから立ち去ってさえくれれば何でもいい。
しなくてもいい喧嘩はしない、リンを悲しませたくはないから。
だから、ただ合わされた額の重心を崩し——実力の片鱗を見せてやるだけでいい。
「——事実かどうか。試してやろうか?」
大した力も掛かっていないのに、どういうわけか一歩後ろに引き下がらされたリーダーは、その圧倒的な戦闘技術の差を身を以て体験して、舌打ちをする。
「——ガキが。可哀想だから見逃してやるよ」
リーダーの不良は、分かりやすい捨て台詞を放ちながら、取り巻きを引き連れて入り口の鳥居の方の階段に消えて行った。
よかった、と内心で思い、奴らの姿が見えなくなって、思わず安堵のため息を吐いた。
それから、本当は5円しか入れるつもりのなかった賽銭を特別に100円にアップグレードし、賽銭箱に投げ入れて、礼拝した。
——リンが早く元気になりますように……あと、幸せになりますように。
心の中で祈り、一礼して後ろに振り返ると、そこには小さいの頃からの知り合い——ここの神社の娘で、今は同級生のスズが、巫女服姿で立っていた。
「あのっ! アルトラ君、ありがとう!」
真っ白な服に、袖口や襟元に赤色のラインが映える、綺麗な格好だが——めちゃくちゃ寒そうだ。
防寒着をガチガチに着込んだ自分とは真逆の格好の彼女に、変に恩を着せるのも嫌だったので、すぐに立ち去ろうと考える。
「……いや、何もしてないよ」
「社務所から見てたけど、あいつらのこと追っ払ってくれたんでしょ? 誰も文句すら言えなかったから、アルトラ君が居なければ——みんなお参りも出来ず、困ってたんだよ」
スズは賽銭箱の前の階段から降りた僕の手を、冷たい手で掴みながら、逃げ道を塞ぐ。
先程まで自分がいた賽銭箱の前には、見計らったかのように——実際見計らっていたのだろう、老人たちが列を成して参拝を始めていた。
「しゃむ……? まあ、役に立ったなら何より」
「社務所だよ。良かったらおいでよ、暖かい甘酒を用意してるよ!」
甘酒か……この寒い中で飲んだら最高だろうな。
どうせリンもいないから、お参りをして、軽く祭りを見たらすぐに帰ろう思っていたし、一杯ご馳走になるのも悪くない。
「じゃあ、お邪魔しようかな」
「うん、上がって上がって!」
どこか嬉しそうに、はしゃぐスズに手を引かれ、彼女の家兼職場の土間で靴を脱いで、古い木製の家に入らせてもらう。
そして畳張りの応接間に上がると、スズは座布団を部屋の角から持って来てくれて、僕はそこに座るように促される。
「いらっしゃい、私もここから見てたよ。勇敢でイイ男だね」
神主——つまりスズの父親が、町内会のお偉いさんへの接待の間に直々に甘酒を持って来てくれた。
……見てたなら止めろよ。一歩間違えば、今頃三台の救急車が祭りを台無しにするところだったのに。
「……甘酒、頂きます。誰も止めないんですね、ああいうの」
甘酒はありがたく頂きつつ、神主に対してストレートで不躾なガキとして振る舞う。
彼は苦い顔をしたが——まあ彼らの事情も分からないでもない。
「体罰、厳しくなりましたもんね。大人が子供に手を出したとなれば、簡単に警察沙汰になる」
この一、二年でそうやって『しょっぴかれた』熱血教師のニュースは、頻繁に夕飯時の話題としてテレビが喜んで提供していたし、大人たちの考え方も確実に変わりつつある。
「ごめん、アルトラ君、怒ってる……?」
スズが不安そうな顔で訊ねたが、別に怒っているわけではない。ただ——
「スズ、彼は憂いているんだ、誰も誰かを助けようとせず、自分自身すら守ることが出来ない社会を」
……なんだ、スズのお父さんは話がわかる人じゃないか。
「暴力を否定して、話し合いで解決しようっていう理想は、暴力を解決手段として扱う人間には通用しない。現実が分かっている人間は、そういう人間を避けるか、放っておくしかないんだ」
そこに溜まった酒粕を、紙コップを回して滑らせながら甘酒を飲み干しながら語ると、神主のみならず、隣で話を聞いているお偉いの老人までもが、うんうん、と頷いていた。
「坊主《ぼうず》、相当な苦労をしておるの」
老人は知った口で話し掛けてくる。
——実際、80歳くらいに見えるこの老人は、勘だけで人を見るだけの人生経験を積んでいるのだろう。
「別に——子供の悩みなんて、大人の面倒なそれと比べられたら、大したことない」
老人は境内《けいだい》の方を見つめながら「そうか」と、呟くように言った。
「……儂らはそろそろ、祝詞《のりと》奏上の時間じゃ、その間スズちゃんに相談でもすると良い」
そう言うと、年相応によぼよぼと立ち上がり、その割に杖もつかずに、畳の隙間を踏まないように気を付けながら、神主を連れて部屋から出ていった。
「……僕、もう帰りたいんだけど」
「まあ、そう言わずに。よかったら甘酒おかわりする?」
「飲む」
即答した僕に、スズは『あ、飲むんだ』と、少し拍子の抜けたような反応をしながらも「待っててね」と言って立ち上がり、奥の方に引っ込んでいった。
——老人《じいさん》の助言を受けるべきだろうか。
生《クソ》真面目で口が固そうで、小学生の頃に美化委員長や学級委員を任されていたらしいスズなら——《正義の証明》について、何か他の解決策を提示してくれるだろうか。
自分ひとりでは、現状に対してどうすることも出来ない。
けれど、リンを犠牲にしてまで、僕は立派にはなりたくない。
——どうせ状況が変わらないのなら、駄目で元々、彼女の意見を聞いてみるのも悪くはない。
そう思い、甘酒を受け取りながら、僕は彼女に相談することにした。
「スズ。いきなりこんな相談をするのはおかしいかも知れないけれど、例え話だと思って聞いてほしい」
「え? いいけど、どうしたの?」
ちゃっかり自分用の甘酒も用意していたスズは、本当に相談されるとは思っていなかったらしいが、親身に話を聞くべく、僕の隣に正座した。
「そうだな——友達に恥をかかせれば、自分はみんなに許されるかも知れなくて、そうしないなら、自分はみんなから怖がられ続ける……という状況があったとして、どうするのが正しいと思う?」
あまりに抽象的というか、状況が上手く説明出来ていない質問に対して、スズは首を傾げた。
だが、彼女はそれを茶化したりはせず、こちらに近寄るように膝を畳の上で擦らせて、小声で話を続ける。
「えっと——もう少し具体的に話を聞いてもいい……? 誰にも言わないから」
既に例え話だとは微塵も思っていない彼女は、甘酒で自らの手を温めながらそう言う。
——真面目に聞いてくれるのなら、もう少ししっかり話しても良さそうだ。
「えっと、まあ……友達が小学生の頃の、恥ずかしい写真がバカヒロ——小五の頃の担任のケータイから出て来たって話せば、友達のその写真が出回るかも知れないけれど、それを話せばどうして担任を殴ったかを説明出来るんだ」
「ああ、あのロリコン……そっか、知らない人から見たらアルトラ君ってただ担任に暴力を振るっただけの悪いやつなんだね」
——そういえばスズも、クラブの関係でバカヒロの被害を受けていた一人だったか。そのせいでバレー部を辞めたんだと本人から聞いた記憶がある。
今でこそ過度なスキンシップ——胸部や臀部を叩いたり、無闇に異性の更衣室を覗けば、たとえ職務上必要な行為であったとしても、それなりに大きな問題になる。
しかし、ほんの二年前にはそれが『当たり前』であり、なんならバカヒロはそれが『特権』だと考えている節すらあった。
深刻な相談をしたつもりの僕だったが、スズは未だに僕が何を言っているのか理解しかねる、といった様子で話を続ける。
「別に、そこまでしなくても——単に裸の『誰かは知らない小学生の女の子』が写ってたって伝えるだけじゃ、だめなの?」
……完全に盲点だった。
そうか、別にリンの過去を暴かずとも、バカヒロがロリコンだったという話は出来るじゃないか。
——となると、賢いリンはむしろ『復讐』が出て来れば、話の信憑性が上がると見越していたに違いない。
自分を積極的に犠牲にして、確実に僕を助けようとしてくれたのだろうか。
「……なるほど、やっぱり相談して良かった、スズ」
「えっ、役に立った?」
「うん、別にリンの名前を出す必要は——あっ……」
「リン?」
「気にしなくていい。ごめん今日は帰るよ、甘酒ごちそうさま」
一気に甘酒を飲み干し——口中を火傷しそうになりながら立ち上がると、スズは一瞬袖を掴んで引き留めようとしてきたが、すぐに手を離した。
「——あなたなら、きっと戦えるよ。また、相談してね」
スズはそう言いながら、部屋を出ていく僕を、静かに見送ってくれた。
『秋祭り』
防寒具の下で、汗がにじみ出したのを感じながら階段の最後の一段を登り切ると、百人程度しか参加者のいない、小さな祭りが行われている。
10月最後の土曜日、近所の神社で行われる秋の収穫祭に、僕は一人でやって来ていた。
神社の祭りで『盆踊り』をするのが本当に宗教的に正しいのかは知らないが、ハロウィンのコスプレをして祭りに参加している子供たちを見ていると——まあそういうものか、と納得せざるを得ない。
……本当はリンと一緒に来る予定だったが、彼女はここ最近の冷え込みに耐えきれず、風邪を引いて寝込んでしまったらしい——だからあれ程、暖かくしたほうが良いと言っておいたのに。
少し前までは一人でいることが当たり前で、寂しさなんて、そこまで感じなかったのに、今日は何故だか、孤独を感じて仕方がなかった。
——先日、リンと今後の話をした際、事もあろうに、彼女は自らの辛い過去を、僕のために暴こうとしていることがわかった。
バカヒロをボコボコに殴り倒した事件、その背景にある動機を説明することで、あの日の暴力を『正当化』する《正義の証明》という計画。
その実行によって、『復讐』がネット上でばら撒かれることすら厭わないといった覚悟の彼女に、他の手段もまともに思い付かない僕は、非常に参っていた。
そもそも誰かが不当に酷い目にあっているのも嫌なのに、リンの裸の写真がみんなに見られると思うと——何故だが、胸が酷く痛むというか、どうにも許しがたい気持ちになる。
身内、というものがまともに出来たことはなかったが、きっとこれが『身内びいき』と言うやつなのだろう。
ゲームセンターの時もそうだったが、リンだけは何がなんでも守ってやりたいという気持ちになる。
……せめて、噂の拡大を防ぐために、過去を隠して生活していく。
そうすれば、リンのトラウマは刺激されず、時間が経てば噂だって消えてくれるかも知れない。
——だからと言って、今、目の前で行なわれようとしている悪行を、リンと自分自身のために『無視』しよう、という気にもならないが。
他校の生徒だろうか——いかにも不良っぽい、少し大柄な三人組が社の前の賽銭箱に棒を突っ込み、こんな祭りの日に、堂々と賽銭泥棒を働こうとしている。
近くにいる不甲斐ない大人たちは、見て見ぬふりをしていて、今まさに「ラッキー」と言いながら『取り餅棒』で千円札を抜き取った所から目を背けていた。
——まあ、仕方がない。
誰だって、不必要にトラブルに足を突っ込んで怪我はしたくないだろうから。
だから僕みたいな人間が現れるんだ——
「……おい、誰も見てないと思ってんのか?」
……話しかけてしまった。
今は大人しくして、これ以上悪い噂を作らないようにするべきだと、分かっているのに。
千円札をポケットにねじ込みながら、一つか二つ年上の——弱そうな男が、メンチを切ってくる。
「ああ? 何だテメェ」
取り巻き二人が一歩後ろに着いている様子を見るに、一回り体格が大きいこいつがリーダーだろう。
賽銭箱の前の階段を、わざとゆっくりと降りてくる不良たち。三人で威圧すれば、相手が引いていくと思っているのか。
リーダーが投げ捨てた、ガム付きの木製の棒が、カランカランと音を立てて、境内の前の砂利場に落ちる。
……雑魚が、武器を投げ捨てながら近寄ってくるなんて。
「はぁん——知らないんだな。俺がアルトラだって」
ポケットに手を突っ込んだまま、ガンを飛ばしてくる男を睨み返し、威嚇する。
……はぁ、ビビってくれないかなぁ。
誰か止めてくれないかなぁ、喧嘩になったら、またリンが悲しむだろうに。
リーダーの男は名前を出されても思い出せないらしく「だからどうしたんだよ」と言いながら頭突きをかましてくる。
……重心がなってないな。その気になれば、指一本でも倒せそうだ。
武術は——仮にやっていても、ボクシングをかじった程度だろう。
仕方がない、大事にならない程度に痛めつけて、追い払うしかないか——
ポケットから手を出して、ため息を漏らしながら重心を変え、リーダーの男を組み伏せようとしたところで——取り巻きの一人が、思い出したかのように驚いた顔をして、二人に話し始める。
「もしかして——トラって、あの高校生七人まとめて半殺しにしたって噂の……?」
「はっ!? 嘘だろ、あいつまだ院にいるんじゃねぇのかよ!?」
取り巻きたちがビビってくれた——噂に変な尾ひれは付いているようだが、ここから立ち去ってさえくれれば何でもいい。
しなくてもいい喧嘩はしない、リンを悲しませたくはないから。
だから、ただ合わされた額の重心を崩し——実力の片鱗を見せてやるだけでいい。
「——事実かどうか。試してやろうか?」
大した力も掛かっていないのに、どういうわけか一歩後ろに引き下がらされたリーダーは、その圧倒的な戦闘技術の差を身を以て体験して、舌打ちをする。
「——ガキが。可哀想だから見逃してやるよ」
リーダーの不良は、分かりやすい捨て台詞を放ちながら、取り巻きを引き連れて入り口の鳥居の方の階段に消えて行った。
よかった、と内心で思い、奴らの姿が見えなくなって、思わず安堵のため息を吐いた。
それから、本当は5円しか入れるつもりのなかった賽銭を特別に100円にアップグレードし、賽銭箱に投げ入れて、礼拝した。
——リンが早く元気になりますように……あと、幸せになりますように。
心の中で祈り、一礼して後ろに振り返ると、そこには小さいの頃からの知り合い——ここの神社の娘で、今は同級生のスズが、巫女服姿で立っていた。
「あのっ! アルトラ君、ありがとう!」
真っ白な服に、袖口や襟元に赤色のラインが映える、綺麗な格好だが——めちゃくちゃ寒そうだ。
防寒着をガチガチに着込んだ自分とは真逆の格好の彼女に、変に恩を着せるのも嫌だったので、すぐに立ち去ろうと考える。
「……いや、何もしてないよ」
「社務所から見てたけど、あいつらのこと追っ払ってくれたんでしょ? 誰も文句すら言えなかったから、アルトラ君が居なければ——みんなお参りも出来ず、困ってたんだよ」
スズは賽銭箱の前の階段から降りた僕の手を、冷たい手で掴みながら、逃げ道を塞ぐ。
先程まで自分がいた賽銭箱の前には、見計らったかのように——実際見計らっていたのだろう、老人たちが列を成して参拝を始めていた。
「しゃむ……? まあ、役に立ったなら何より」
「社務所だよ。良かったらおいでよ、暖かい甘酒を用意してるよ!」
甘酒か……この寒い中で飲んだら最高だろうな。
どうせリンもいないから、お参りをして、軽く祭りを見たらすぐに帰ろう思っていたし、一杯ご馳走になるのも悪くない。
「じゃあ、お邪魔しようかな」
「うん、上がって上がって!」
どこか嬉しそうに、はしゃぐスズに手を引かれ、彼女の家兼職場の土間で靴を脱いで、古い木製の家に入らせてもらう。
そして畳張りの応接間に上がると、スズは座布団を部屋の角から持って来てくれて、僕はそこに座るように促される。
「いらっしゃい、私もここから見てたよ。勇敢でイイ男だね」
神主——つまりスズの父親が、町内会のお偉いさんへの接待の間に直々に甘酒を持って来てくれた。
……見てたなら止めろよ。一歩間違えば、今頃三台の救急車が祭りを台無しにするところだったのに。
「……甘酒、頂きます。誰も止めないんですね、ああいうの」
甘酒はありがたく頂きつつ、神主に対してストレートで不躾なガキとして振る舞う。
彼は苦い顔をしたが——まあ彼らの事情も分からないでもない。
「体罰、厳しくなりましたもんね。大人が子供に手を出したとなれば、簡単に警察沙汰になる」
この一、二年でそうやって『しょっぴかれた』熱血教師のニュースは、頻繁に夕飯時の話題としてテレビが喜んで提供していたし、大人たちの考え方も確実に変わりつつある。
「ごめん、アルトラ君、怒ってる……?」
スズが不安そうな顔で訊ねたが、別に怒っているわけではない。ただ——
「スズ、彼は憂いているんだ、誰も誰かを助けようとせず、自分自身すら守ることが出来ない社会を」
……なんだ、スズのお父さんは話がわかる人じゃないか。
「暴力を否定して、話し合いで解決しようっていう理想は、暴力を解決手段として扱う人間には通用しない。現実が分かっている人間は、そういう人間を避けるか、放っておくしかないんだ」
そこに溜まった酒粕を、紙コップを回して滑らせながら甘酒を飲み干しながら語ると、神主のみならず、隣で話を聞いているお偉いの老人までもが、うんうん、と頷いていた。
「坊主《ぼうず》、相当な苦労をしておるの」
老人は知った口で話し掛けてくる。
——実際、80歳くらいに見えるこの老人は、勘だけで人を見るだけの人生経験を積んでいるのだろう。
「別に——子供の悩みなんて、大人の面倒なそれと比べられたら、大したことない」
老人は境内《けいだい》の方を見つめながら「そうか」と、呟くように言った。
「……儂らはそろそろ、祝詞《のりと》奏上の時間じゃ、その間スズちゃんに相談でもすると良い」
そう言うと、年相応によぼよぼと立ち上がり、その割に杖もつかずに、畳の隙間を踏まないように気を付けながら、神主を連れて部屋から出ていった。
「……僕、もう帰りたいんだけど」
「まあ、そう言わずに。よかったら甘酒おかわりする?」
「飲む」
即答した僕に、スズは『あ、飲むんだ』と、少し拍子の抜けたような反応をしながらも「待っててね」と言って立ち上がり、奥の方に引っ込んでいった。
——老人《じいさん》の助言を受けるべきだろうか。
生《クソ》真面目で口が固そうで、小学生の頃に美化委員長や学級委員を任されていたらしいスズなら——《正義の証明》について、何か他の解決策を提示してくれるだろうか。
自分ひとりでは、現状に対してどうすることも出来ない。
けれど、リンを犠牲にしてまで、僕は立派にはなりたくない。
——どうせ状況が変わらないのなら、駄目で元々、彼女の意見を聞いてみるのも悪くはない。
そう思い、甘酒を受け取りながら、僕は彼女に相談することにした。
「スズ。いきなりこんな相談をするのはおかしいかも知れないけれど、例え話だと思って聞いてほしい」
「え? いいけど、どうしたの?」
ちゃっかり自分用の甘酒も用意していたスズは、本当に相談されるとは思っていなかったらしいが、親身に話を聞くべく、僕の隣に正座した。
「そうだな——友達に恥をかかせれば、自分はみんなに許されるかも知れなくて、そうしないなら、自分はみんなから怖がられ続ける……という状況があったとして、どうするのが正しいと思う?」
あまりに抽象的というか、状況が上手く説明出来ていない質問に対して、スズは首を傾げた。
だが、彼女はそれを茶化したりはせず、こちらに近寄るように膝を畳の上で擦らせて、小声で話を続ける。
「えっと——もう少し具体的に話を聞いてもいい……? 誰にも言わないから」
既に例え話だとは微塵も思っていない彼女は、甘酒で自らの手を温めながらそう言う。
——真面目に聞いてくれるのなら、もう少ししっかり話しても良さそうだ。
「えっと、まあ……友達が小学生の頃の、恥ずかしい写真がバカヒロ——小五の頃の担任のケータイから出て来たって話せば、友達のその写真が出回るかも知れないけれど、それを話せばどうして担任を殴ったかを説明出来るんだ」
「ああ、あのロリコン……そっか、知らない人から見たらアルトラ君ってただ担任に暴力を振るっただけの悪いやつなんだね」
——そういえばスズも、クラブの関係でバカヒロの被害を受けていた一人だったか。そのせいでバレー部を辞めたんだと本人から聞いた記憶がある。
今でこそ過度なスキンシップ——胸部や臀部を叩いたり、無闇に異性の更衣室を覗けば、たとえ職務上必要な行為であったとしても、それなりに大きな問題になる。
しかし、ほんの二年前にはそれが『当たり前』であり、なんならバカヒロはそれが『特権』だと考えている節すらあった。
深刻な相談をしたつもりの僕だったが、スズは未だに僕が何を言っているのか理解しかねる、といった様子で話を続ける。
「別に、そこまでしなくても——単に裸の『誰かは知らない小学生の女の子』が写ってたって伝えるだけじゃ、だめなの?」
……完全に盲点だった。
そうか、別にリンの過去を暴かずとも、バカヒロがロリコンだったという話は出来るじゃないか。
——となると、賢いリンはむしろ『復讐』が出て来れば、話の信憑性が上がると見越していたに違いない。
自分を積極的に犠牲にして、確実に僕を助けようとしてくれたのだろうか。
「……なるほど、やっぱり相談して良かった、スズ」
「えっ、役に立った?」
「うん、別にリンの名前を出す必要は——あっ……」
「リン?」
「気にしなくていい。ごめん今日は帰るよ、甘酒ごちそうさま」
一気に甘酒を飲み干し——口中を火傷しそうになりながら立ち上がると、スズは一瞬袖を掴んで引き留めようとしてきたが、すぐに手を離した。
「——あなたなら、きっと戦えるよ。また、相談してね」
スズはそう言いながら、部屋を出ていく僕を、静かに見送ってくれた。
第13話『決意』
第13話『決意』
彼の過去を知る者が彼の噂を流してしまえば、彼は再び——いや、これまで以上にみんなから避けられ、積み上げた何もかもを失ってしまう。
彼が私を生贄にしてくれるのなら、私は喜んで彼のために犠牲になる。
彼が再び孤独の沼へと沈み込むのを選ぶなら、私は喜んで彼を手に入れる。
——そして、銀杏《イチョウ》の木が真っ黄色に染まった昼休みの中庭で、アルトラは遂に、自らの過去を暴くことを決意し、宣言した。
「リン。僕は、小学生の頃の暴力の理由について、説明をしようと思う」
落ちた黄色い葉っぱを眺めながら、私は彼の言葉に頷いた。
……それで良い。
アルトラが救われることを望むのなら、私はどうなったって構わない。
——私を生贄に捧げて《正義の証明》に成功したなら、アルトラは一生、私に負い目を感じ続けてくれるから。
「わかった。じゃあ、みんなに例の話を……」
「駄目だ。あくまで、リンが関係していたことについては隠す。僕が見たのは『バカヒロがロリコンだった』という証拠だけだ」
「——っ。でも、それじゃあ、十分じゃないよ。むしろ写真をあいつらから炙り出して、説得力を持たせないと……噂には勝てない」
アルトラが小学生の頃の担任を今更悪く言った所で、みんながそんな確認不可能な話を信じるとは、私には思えない。
それ以上に——そうなれば彼は、私に負い目を感じる必要がなくなってしまう。
それでは、駄目なんだ。
——お願い。私を生贄にして、アルトラ。
「私たちだけじゃ、過去の噂を否定しきることなんて、出来ないから……」
真実に説得力を持たせるには、確認可能な証拠——それが依然として直接的な証明には繋がらずとも、少なくとも|説明可能な物語《ナラティブ》を受け入れさせるに足る何かが必要なのだ。
そのために、私は《正義の証明》の生贄になる。
「……僕たち『だけ』じゃなければ、否定出来る」
……誰かの協力、例えば他の『被害者』を連れて来て一緒に語って貰えるのなら、確かにそれは可能かも知れない。
でも——私は、それを防がなくちゃいけない。
「——もしそれが、誰かの『被害』を語らせることになるのなら、それは私の代わりにその子が恥ずかしい過去を暴くだけになっちゃう」
「写真をばら撒かれるより、その方がマシだし、本人がそれを語るのを嫌がらないのなら、それでいい」
「確認だけど、その『被害』って、みんなと同じで『仕事の為に』覗かれただけ、とかではないんだよね」
「うん。酷いボディタッチと覗きの被害を受けていた女の子の中に、一人協力してくれそうな子がいる」
ボディタッチの程度は分からないけれど、それについて自分の口から語るというのは、私と同じで本人にとっては辛いことではないのか。
アルトラは、私のために——他の誰かを生贄にしようとしているのか。
——やめてよ、アルトラ。
この『計画』の生贄は、私じゃないといけないんだ。
「ねえ、アルトラ。私はもう慣れてるから、その子に嫌な思いをさせるくらいなら、私が裸を見られるのを我慢したほうがいい」
アルトラにそんな選択をして欲しくない、だから私は最初から、彼に余計な選択肢を与えたくなかった。
彼には、彼の『正しさ』に従って、私が多少の恥を耐える必要があることを『仕方の無いこと』として、割り切って欲しかった。
「リン。自傷行為なんか、もうしなくてもいいんだよ」
アルトラにそう言われて、私はドキッとした。
彼の目にはそう映っていたのか——いや、彼は私の本心を見透したのか。
この計画が——どんなものであるのかに、気づいてしまったのか。
……私は彼のために汚れたい。
彼のために傷付きたい。
そうすれば彼は、今まで以上に私を必要としてくれる。
——そうすれば彼は、私に『依存』してくれる。
生贄になった私を、アルトラは絶対に見捨てたりしないから。
……しかし彼は、私の選択を許さない。
——だったらもう、もう一つの計画を実行するしかない。
「——その子は、巻き込まれるのを嫌がらないの?」
「わからない。けど、スズは真面目で良い奴だから、協力してくれると思う」
「そっか……わかった、じゃあ、その子が協力してくれるかどうか、聞いてみて」
アルトラはようやく顔を上げた私の顔を見て、少し安心したように「聞いてみるよ」と言った。
——私の感情が、どれ程に汚く真っ黒で、壊れているのかも知らずに。
———————
放課後、アルトラは紅葉した山の木々がアーチを描いて繋ぐ二つの鳥居をくぐり、神社——つまりスズの家にやって来ていた。
境内の石段に腰掛け、手が冷えないように学生服の袖口を繋げて手首を握りながら、彼女にどう話すべきか考えている。
そうしているうちに、スズは委員会の仕事を終えて帰って来て、境内で俯きながら手を温めている彼の存在に気付き、声を掛けた。
「アルトラ君、どうしたの?」
「スズ、また相談したいことがあるんだけど、聞いてもらってもいいかな」
「大丈夫——ここじゃ寒いし、良ければ家に上がって行ってよ」
「うん、ありがとう」
腕組みを解いて石段から立ち上がり、制服姿のスズの後ろに着いて行く。
「お邪魔します」
土間で靴を脱ぎ、来客用の青いスリッパを履いたアルトラは、応接間ではなく、彼女の部屋へと通される。
少し驚いた顔をして、応接間の方を見た彼に対して、スズは爽やかな笑顔を向けながら、カバンを置いた。
「今日は私のお客さんなんでしょ?」
アルトラに勉強机に座るように促し、一度部屋から出ていった彼女は「ココアでいいー?」と彼に聞く。
しかし彼は——初めて女の子の部屋に上げられて緊張しており、答える余裕などなかった。
しばらくするとスズは、暖められた牛乳を入れたピンクのマグカップと、封の開いたココアの大きな袋を、木製の丸いトレイに載せて持ってきた。
「スプーンはこれ使って」
スカートのポケットから業務用の白い使い捨てスプーンを取り出し、スズはアルトラに手渡す。
そわそわしながらそれを受け取った彼は、上目遣いで彼女に礼を言う。
「あ、ありがとう」
家柄から客人対応に慣れたスズは、癖で頭を軽く下げながら「いいえ」と言い、それが妙に面白く感じたアルトラは、口元を隠して少しニヤついた。
「それで、相談ってなんだったの?」
スズは机の隣にあるベッドに腰掛けつつ、スプーンを開封しながら言う。
「前にも話したことだけれど、バカヒロがロリコンだって証明をするのに、『証拠』がないから、説得力がないって——協力してくれてる子に言われちゃって」
「ああ、リンちゃんね」
「知ってるの?」
「いや、前にアルトラ君がポロッと言ってたから、覚えてるだけ」
スプーンの袋を開け、ココアの粉末を温かい牛乳に入れながら、アルトラは「よくそんなことを覚えているな」とつぶやきながら、白い牛乳を茶色く染め上げていく。
「それでリンは、僕がバカヒロのケータイで見た、リンが——酷いことをされている写真や動画が、イジメていた奴らから流出して、更にそれがリン本人であることを奴らが言いふらして、リンもそれを認めれば——バカヒロがロリコンで、リンの写真を持っていたって言う僕の証言が『信憑性』を持つようになるって考えてるみたいなんだ」
スズは驚いた顔をして、自分の分のココアを混ぜながら、深刻な顔をして話すアルトラに寄り添う。
「——リンちゃん、そんなヒドい目に遭ってたんだ」
スズはその話を聞くまで、リンが自分で写真を撮って、それを売っていたのではないかと想像していたので、彼女のリンに対する印象は全く違うものになった。
「僕は、リンにこれ以上嫌な思いをさせたくない」
「それで、どうしたらいいかを一緒に考えたいってこと?」
「いや——スズ、君が頻繁にバカヒロに身体を触られていて、そのせいでクラブを辞めたって話を、一緒にして欲しい」
一瞬、スズは更に驚いた顔をしたが、すぐにアルトラの目的を理解し、微笑んだ。
「そっか、バカヒロがロリコンだって証明出来るのなら、別に写真の件にこだわる必要はないんだ」
「うん。でも、そんな話をみんなにするのは嫌なんじゃ無いかって」
「えっ、それリンちゃんが言ったの?」
「うん。リンが言ってた」
スズは、リンに対する評価が完全に間違っていたことを理解した。
異常なまでに人を頼るのを嫌がるタイプで、人に迷惑を掛けるくらいなら喜んで腹を切るだろうと感じた。
「いいよ、私は別に平気だから、協力する。断ってリンちゃんがもっとヒドい目に遭うのも嫌だし——私はアルトラ君のこと、嫌いじゃないし」
アルトラは笑顔でそう言うスズに対して「本当!?」と言いながら手を握ろうとしたが——彼女がココアを零してはいけないので諦めた。
それを見たスズは、一旦ココアを机に置いて、アルトラに握手を求めるのだった。
「収穫祭のときのお礼、ちゃんと返すからね」
彼の過去を知る者が彼の噂を流してしまえば、彼は再び——いや、これまで以上にみんなから避けられ、積み上げた何もかもを失ってしまう。
彼が私を生贄にしてくれるのなら、私は喜んで彼のために犠牲になる。
彼が再び孤独の沼へと沈み込むのを選ぶなら、私は喜んで彼を手に入れる。
——そして、銀杏《イチョウ》の木が真っ黄色に染まった昼休みの中庭で、アルトラは遂に、自らの過去を暴くことを決意し、宣言した。
「リン。僕は、小学生の頃の暴力の理由について、説明をしようと思う」
落ちた黄色い葉っぱを眺めながら、私は彼の言葉に頷いた。
……それで良い。
アルトラが救われることを望むのなら、私はどうなったって構わない。
——私を生贄に捧げて《正義の証明》に成功したなら、アルトラは一生、私に負い目を感じ続けてくれるから。
「わかった。じゃあ、みんなに例の話を……」
「駄目だ。あくまで、リンが関係していたことについては隠す。僕が見たのは『バカヒロがロリコンだった』という証拠だけだ」
「——っ。でも、それじゃあ、十分じゃないよ。むしろ写真をあいつらから炙り出して、説得力を持たせないと……噂には勝てない」
アルトラが小学生の頃の担任を今更悪く言った所で、みんながそんな確認不可能な話を信じるとは、私には思えない。
それ以上に——そうなれば彼は、私に負い目を感じる必要がなくなってしまう。
それでは、駄目なんだ。
——お願い。私を生贄にして、アルトラ。
「私たちだけじゃ、過去の噂を否定しきることなんて、出来ないから……」
真実に説得力を持たせるには、確認可能な証拠——それが依然として直接的な証明には繋がらずとも、少なくとも|説明可能な物語《ナラティブ》を受け入れさせるに足る何かが必要なのだ。
そのために、私は《正義の証明》の生贄になる。
「……僕たち『だけ』じゃなければ、否定出来る」
……誰かの協力、例えば他の『被害者』を連れて来て一緒に語って貰えるのなら、確かにそれは可能かも知れない。
でも——私は、それを防がなくちゃいけない。
「——もしそれが、誰かの『被害』を語らせることになるのなら、それは私の代わりにその子が恥ずかしい過去を暴くだけになっちゃう」
「写真をばら撒かれるより、その方がマシだし、本人がそれを語るのを嫌がらないのなら、それでいい」
「確認だけど、その『被害』って、みんなと同じで『仕事の為に』覗かれただけ、とかではないんだよね」
「うん。酷いボディタッチと覗きの被害を受けていた女の子の中に、一人協力してくれそうな子がいる」
ボディタッチの程度は分からないけれど、それについて自分の口から語るというのは、私と同じで本人にとっては辛いことではないのか。
アルトラは、私のために——他の誰かを生贄にしようとしているのか。
——やめてよ、アルトラ。
この『計画』の生贄は、私じゃないといけないんだ。
「ねえ、アルトラ。私はもう慣れてるから、その子に嫌な思いをさせるくらいなら、私が裸を見られるのを我慢したほうがいい」
アルトラにそんな選択をして欲しくない、だから私は最初から、彼に余計な選択肢を与えたくなかった。
彼には、彼の『正しさ』に従って、私が多少の恥を耐える必要があることを『仕方の無いこと』として、割り切って欲しかった。
「リン。自傷行為なんか、もうしなくてもいいんだよ」
アルトラにそう言われて、私はドキッとした。
彼の目にはそう映っていたのか——いや、彼は私の本心を見透したのか。
この計画が——どんなものであるのかに、気づいてしまったのか。
……私は彼のために汚れたい。
彼のために傷付きたい。
そうすれば彼は、今まで以上に私を必要としてくれる。
——そうすれば彼は、私に『依存』してくれる。
生贄になった私を、アルトラは絶対に見捨てたりしないから。
……しかし彼は、私の選択を許さない。
——だったらもう、もう一つの計画を実行するしかない。
「——その子は、巻き込まれるのを嫌がらないの?」
「わからない。けど、スズは真面目で良い奴だから、協力してくれると思う」
「そっか……わかった、じゃあ、その子が協力してくれるかどうか、聞いてみて」
アルトラはようやく顔を上げた私の顔を見て、少し安心したように「聞いてみるよ」と言った。
——私の感情が、どれ程に汚く真っ黒で、壊れているのかも知らずに。
———————
放課後、アルトラは紅葉した山の木々がアーチを描いて繋ぐ二つの鳥居をくぐり、神社——つまりスズの家にやって来ていた。
境内の石段に腰掛け、手が冷えないように学生服の袖口を繋げて手首を握りながら、彼女にどう話すべきか考えている。
そうしているうちに、スズは委員会の仕事を終えて帰って来て、境内で俯きながら手を温めている彼の存在に気付き、声を掛けた。
「アルトラ君、どうしたの?」
「スズ、また相談したいことがあるんだけど、聞いてもらってもいいかな」
「大丈夫——ここじゃ寒いし、良ければ家に上がって行ってよ」
「うん、ありがとう」
腕組みを解いて石段から立ち上がり、制服姿のスズの後ろに着いて行く。
「お邪魔します」
土間で靴を脱ぎ、来客用の青いスリッパを履いたアルトラは、応接間ではなく、彼女の部屋へと通される。
少し驚いた顔をして、応接間の方を見た彼に対して、スズは爽やかな笑顔を向けながら、カバンを置いた。
「今日は私のお客さんなんでしょ?」
アルトラに勉強机に座るように促し、一度部屋から出ていった彼女は「ココアでいいー?」と彼に聞く。
しかし彼は——初めて女の子の部屋に上げられて緊張しており、答える余裕などなかった。
しばらくするとスズは、暖められた牛乳を入れたピンクのマグカップと、封の開いたココアの大きな袋を、木製の丸いトレイに載せて持ってきた。
「スプーンはこれ使って」
スカートのポケットから業務用の白い使い捨てスプーンを取り出し、スズはアルトラに手渡す。
そわそわしながらそれを受け取った彼は、上目遣いで彼女に礼を言う。
「あ、ありがとう」
家柄から客人対応に慣れたスズは、癖で頭を軽く下げながら「いいえ」と言い、それが妙に面白く感じたアルトラは、口元を隠して少しニヤついた。
「それで、相談ってなんだったの?」
スズは机の隣にあるベッドに腰掛けつつ、スプーンを開封しながら言う。
「前にも話したことだけれど、バカヒロがロリコンだって証明をするのに、『証拠』がないから、説得力がないって——協力してくれてる子に言われちゃって」
「ああ、リンちゃんね」
「知ってるの?」
「いや、前にアルトラ君がポロッと言ってたから、覚えてるだけ」
スプーンの袋を開け、ココアの粉末を温かい牛乳に入れながら、アルトラは「よくそんなことを覚えているな」とつぶやきながら、白い牛乳を茶色く染め上げていく。
「それでリンは、僕がバカヒロのケータイで見た、リンが——酷いことをされている写真や動画が、イジメていた奴らから流出して、更にそれがリン本人であることを奴らが言いふらして、リンもそれを認めれば——バカヒロがロリコンで、リンの写真を持っていたって言う僕の証言が『信憑性』を持つようになるって考えてるみたいなんだ」
スズは驚いた顔をして、自分の分のココアを混ぜながら、深刻な顔をして話すアルトラに寄り添う。
「——リンちゃん、そんなヒドい目に遭ってたんだ」
スズはその話を聞くまで、リンが自分で写真を撮って、それを売っていたのではないかと想像していたので、彼女のリンに対する印象は全く違うものになった。
「僕は、リンにこれ以上嫌な思いをさせたくない」
「それで、どうしたらいいかを一緒に考えたいってこと?」
「いや——スズ、君が頻繁にバカヒロに身体を触られていて、そのせいでクラブを辞めたって話を、一緒にして欲しい」
一瞬、スズは更に驚いた顔をしたが、すぐにアルトラの目的を理解し、微笑んだ。
「そっか、バカヒロがロリコンだって証明出来るのなら、別に写真の件にこだわる必要はないんだ」
「うん。でも、そんな話をみんなにするのは嫌なんじゃ無いかって」
「えっ、それリンちゃんが言ったの?」
「うん。リンが言ってた」
スズは、リンに対する評価が完全に間違っていたことを理解した。
異常なまでに人を頼るのを嫌がるタイプで、人に迷惑を掛けるくらいなら喜んで腹を切るだろうと感じた。
「いいよ、私は別に平気だから、協力する。断ってリンちゃんがもっとヒドい目に遭うのも嫌だし——私はアルトラ君のこと、嫌いじゃないし」
アルトラは笑顔でそう言うスズに対して「本当!?」と言いながら手を握ろうとしたが——彼女がココアを零してはいけないので諦めた。
それを見たスズは、一旦ココアを机に置いて、アルトラに握手を求めるのだった。
「収穫祭のときのお礼、ちゃんと返すからね」
第14話『過去を哭けよアルトラ』
第14話『過去を哭けよアルトラ』
紅葉した銀杏《イチョウ》の葉が冷たい北風に落とされまいと耐える、祝日明けの朝のホームルーム前の中庭で、私とアルトラは『今後の方針』についての共有をするべく集まっていた。
「リン、また風邪ひくから、このマフラー使いなよ」
一段と冷え込んだ今日、アルトラは自分の着けているマフラーを私に貸してくれようとした。
——昔、マフラーで首を絞められたせいで、首に何かを巻くのが怖い私はそれを断って、壁を背にしてしゃがみ、脚が冷えないようにスカートにしまいこんだ。
「……メッセージで話は聞いてるけど、スズちゃん、本当にオーケーって言ってくれたの?」
首にマフラーを巻き直してから、両手を袖口に隠したアルトラを見上げて、私は——最終確認を取る。
スズという子が計画に参加し、私の代わりに生贄の役を務めるのなら、《正義の証明》は私にとって『不合理』な計画となる。
——つまり、より『合理的』な、私にとっての正解に近い、もう一つの計画を、行わざるを得なくなる。
「うん。スズは、リンがヒドい目に遭うのは可哀想だし、セクハラをされたことを話すくらい気にしないって」
「そう、なんだ」
同級生の人たちに『私はセクハラをされていました』なんて話すのは少し抵抗がありそうなものなのに。
なんの見返りもなく誰かのためにそんな話をしてくれるのは、私やアルトラに対する哀れみからなのだろうか。
……あるいは事情を知って、断れば誰かが不幸せになるという状況だから、渋々協力してくれるのだろうか。
きっと、良い子なんだろうな。
——私なんかとは、違って。
「……どうしたの、リン。あまり乗り気じゃない?」
私の顔を覗くアルトラは、私が何を考えているのか気になって仕方がないようで「大丈夫? 寒い?」などと言いながら、再びマフラーを外して私に近付いた。
「……何でもないの、大丈夫」
私のことを心配する彼の目を見ることも出来ず、私はただ、うつむきながら首を振った。
私の本心を知ったら、アルトラはきっと私のことを嫌うだろう。
だからこの気持ちは、誰にも気付かれないように、隠し通さなくてはいけない。
——私の本当の目的は、アルトラを孤独から救うことなどではないのだから。
——彼の評価を取り戻させ、彼をみんなのヒーローにする計画を《正義の証明》と呼んだのなら——今の私の計画は《過去を哭けよアルトラ》とでも呼ぶべきだろう。
私は今、彼が『孤独になる』ことを望んでいて、彼が『私に依存する』ことを狙っている。
彼が《正義の証明》のために、私を利用して不良たちと喧嘩をし、自らの正義を証明するために、私を辱め、苦しめたという『物語《ナラティブ》』により、彼の信頼を地の底に叩き落とす。
そして——世界でただ一人、私だけが彼を『ヒーロー』として支え、抱き締め、支配する計画。
それが《過去を哭けよアルトラ》だ。
本当に最低で、本当に許されないことは分かっている。
……私は、彼が友達と遊ぶようになってから、ずっと孤独だった。
毎日、帰りに玄関で彼を待っても、彼は私に気付きもせず、友達と一緒に帰る彼の背中を、私はただ眺めるしかなかった。
——でも、彼は帰ってきた。
だから、この機会に彼が『逃れられない過去』によって私の前で慟哭し、私が彼の孤独を抱きしめられるような——私たち二人だけの時間を手に入れたかった。
「アルトラ、アルトラ……」
真っ黒でドロドロの感情で、不安定になった心を落ち着かせるために、目の前にいる大好きな人の名前を呼ぶ。
「どうした、リン?」
マフラーを私に差し出す彼は、いつもの優しい目で、心配そうに私の目を見つめる。
——大好き、私はあなたを手に入れたい。
あなたが私しか愛せなくなれば、私はこんな汚れを気にすることなく、あなたとひとつになれる。
「アルトラ、私を助けようとしてくれて、ありがとう」
——私は、あなたを助けようとしていないのに。
私は——あなたを、苦しめようとしているのに。
……ねえ、アルトラ、大好きだよ。
あなたの全部がほしい、どれだけ汚れてしまっても、傷付いてしまっても。
——アルトラだけが、私の生きる意味だから。
大好きな彼の顔を見るために前を向くと、目の前にしゃがみ込んで、私を心配してくれる彼の姿があった。
——なんで、そんなに悲しい顔をするの?
マフラーを再び差し出した彼の手に、私は触れる勇気がない。
——やめて、今は、優しくしないで。
あなたを……私と同じところに落とすまでは。
気が付くと、冷たい頬に熱い涙が伝っていた。
……なんで私は、こんなに優しい人を、苦しめなくちゃいけないんだろう。
ただ、アルトラが大好きで、彼がどこかに行ってしまうのが怖い。
ねえ、助けてよ、アルトラ……
「大丈夫だよ、リン」
アルトラは私の首にマフラーを巻いて、はじめて私の頭を撫でてくれた。
不思議とゴワゴワした大きな手の暖かさが心地よく、怖かったはずのマフラーは、ぐちゃぐちゃになった私の心を落ち着かせてくれた。
「ずっと、一緒がいい……」
甘えるような声で——許されるはずもないのに、そんな言葉がこぼれてしまった私の頭を、アルトラは大きくて硬い両手で犬のように撫で回し、私の髪の毛はボサボサになる。
「いつものお返し。リン、大丈夫だから、これからも一緒にいよう」
朝のホームルーム5分前のチャイムが鳴る中、アルトラは座り込む私に手を差し伸べて、立ち上がるのを手伝ってくれた。
髪もボサボサで心も不安定な私は、アルトラに付き添われながら保健室に行き、保健室の先生がアルトラと私のクラスに二人が登校していることと、アルトラが教室に行くのが遅れる事情を説明してくれる。
先生に教室に戻るよう言われたアルトラは、一礼して保健室を立ち去り、自分の教室に帰っていく。
私がパイプ椅子に座りながら名残惜しそうに彼の方を見ていると、若い女の先生は、ある程度私が保健室に来た理由を察したようで、シャワー室の方から櫛を持って来ると、目の前の回転椅子に座って話し始めた。
「アルトラ君、噂と違って優しい子だね」
「……はい、すごく優しくて、強くて、いい人ですよ」
私がそう言うと、先生は嬉しそうな顔をして、櫛で髪を梳《と》く私に対して、診察と言う名の恋話《コイバナ》を始めるのだった。
「……で、いつから彼のことが好きなの?」
「えっ?」
「ほら、一応診察だからさ、恋の病の」
「ああ……えっと、多分……親にもうアルトラと会うなって言われて、その時から……」
「一番《いっちばん》燃えるやつじゃない、え、いついつ?」
「夏休みの間、アルトラが事件を起こして何日か経った日に……好きだって自覚しました」
「うわぁー、青春だぁ! いいなぁ、私もそんな恋してみたかったぁ!」
先生は回転椅子を一回転させながら、手を合わせて前後にくねくねする。
そんな先生に櫛を返すと、そのまま机の上に置いて、彼女は楽しそうに話を続ける。
「それで、彼が気持ちに気付いてくれなくて泣いちゃった?」
私が答えに困ってうつむくと、先生は私の方を見つめて、しばらくすると「無理に答えなくてもいいのよ」と言って机の方に椅子を回転させた。
「どうする? ベッド使うなら、マフラーは外してね。」
……先生にそう言われて思い出したが、アルトラのマフラーを借りっぱなしだった。
「あ……これ、返さなきゃ」
「えっ、アルトラ君のマフラーなの? しょうがないなぁ、特別に持ち込みを許可するよ」
「そ、そんな、教室戻りますよ、迷惑になりますし……」
私がそう言うと、丁度一時間目の開始のチャイムが鳴ったので、私は立ち上がって教室に戻ろうとした。
しかし、先生はそんな私を静止して、もう少し休むように言った。
「リンちゃん。真面目で頑張り屋さんなのは分かるけど、たまにはサボらないと、心が壊れちゃうよ」
……サボった所で、この心が治るとは思えない。
しかし、私の心が壊れているのは確かだった。
彼に必要とされたい、彼と一緒に居たい。
そのためなら、彼が不幸になっても——嫌だ、アルトラには幸せになってほしい。
——分からない、自分が《正義の証明》を成すべきか、《過去を哭けよアルトラ》を成すべきか、分からない。
彼がまた私を必要としなくなるのが怖くて、私は彼が幸せになるのが怖い。なのに、私は彼に幸せになってほしい。
アルトラは未来に進もうとしているのに、私は彼を過去に縛り付けようとしている。
「アルトラ……」
先生に背中を押され、カーテン付きのベッドに座った私は、一人で無意識に彼の名前を呼びながら、自分の心が引き裂かれるのを耐えていた。
「ごめんなさい……」
彼に気持ちを伝えればいいだけなのに、私にはどうしてもそれが出来ない。
身も心も汚れていて、捧げられるものも何もなくて、彼が不幸であり続ける限り、私は隣に居られるから幸せだ、なんて思ってしまう私が——アルトラと結ばれることなんて、許されない。
私は、彼と一緒に傷を舐め合うために、自らの傷を広げようとしたし、彼を騙して一緒に孤独になる為の計画まで立てているのだ。
私は——最低で、本当に彼の幸せを願うなら、いなくなるべき人間なのに。
この期に及んでベッドの上でアルトラのマフラーに顔を埋《うず》め、それを涙で汚してしまう自分が、嫌いで嫌いで仕方がなかった。
紅葉した銀杏《イチョウ》の葉が冷たい北風に落とされまいと耐える、祝日明けの朝のホームルーム前の中庭で、私とアルトラは『今後の方針』についての共有をするべく集まっていた。
「リン、また風邪ひくから、このマフラー使いなよ」
一段と冷え込んだ今日、アルトラは自分の着けているマフラーを私に貸してくれようとした。
——昔、マフラーで首を絞められたせいで、首に何かを巻くのが怖い私はそれを断って、壁を背にしてしゃがみ、脚が冷えないようにスカートにしまいこんだ。
「……メッセージで話は聞いてるけど、スズちゃん、本当にオーケーって言ってくれたの?」
首にマフラーを巻き直してから、両手を袖口に隠したアルトラを見上げて、私は——最終確認を取る。
スズという子が計画に参加し、私の代わりに生贄の役を務めるのなら、《正義の証明》は私にとって『不合理』な計画となる。
——つまり、より『合理的』な、私にとっての正解に近い、もう一つの計画を、行わざるを得なくなる。
「うん。スズは、リンがヒドい目に遭うのは可哀想だし、セクハラをされたことを話すくらい気にしないって」
「そう、なんだ」
同級生の人たちに『私はセクハラをされていました』なんて話すのは少し抵抗がありそうなものなのに。
なんの見返りもなく誰かのためにそんな話をしてくれるのは、私やアルトラに対する哀れみからなのだろうか。
……あるいは事情を知って、断れば誰かが不幸せになるという状況だから、渋々協力してくれるのだろうか。
きっと、良い子なんだろうな。
——私なんかとは、違って。
「……どうしたの、リン。あまり乗り気じゃない?」
私の顔を覗くアルトラは、私が何を考えているのか気になって仕方がないようで「大丈夫? 寒い?」などと言いながら、再びマフラーを外して私に近付いた。
「……何でもないの、大丈夫」
私のことを心配する彼の目を見ることも出来ず、私はただ、うつむきながら首を振った。
私の本心を知ったら、アルトラはきっと私のことを嫌うだろう。
だからこの気持ちは、誰にも気付かれないように、隠し通さなくてはいけない。
——私の本当の目的は、アルトラを孤独から救うことなどではないのだから。
——彼の評価を取り戻させ、彼をみんなのヒーローにする計画を《正義の証明》と呼んだのなら——今の私の計画は《過去を哭けよアルトラ》とでも呼ぶべきだろう。
私は今、彼が『孤独になる』ことを望んでいて、彼が『私に依存する』ことを狙っている。
彼が《正義の証明》のために、私を利用して不良たちと喧嘩をし、自らの正義を証明するために、私を辱め、苦しめたという『物語《ナラティブ》』により、彼の信頼を地の底に叩き落とす。
そして——世界でただ一人、私だけが彼を『ヒーロー』として支え、抱き締め、支配する計画。
それが《過去を哭けよアルトラ》だ。
本当に最低で、本当に許されないことは分かっている。
……私は、彼が友達と遊ぶようになってから、ずっと孤独だった。
毎日、帰りに玄関で彼を待っても、彼は私に気付きもせず、友達と一緒に帰る彼の背中を、私はただ眺めるしかなかった。
——でも、彼は帰ってきた。
だから、この機会に彼が『逃れられない過去』によって私の前で慟哭し、私が彼の孤独を抱きしめられるような——私たち二人だけの時間を手に入れたかった。
「アルトラ、アルトラ……」
真っ黒でドロドロの感情で、不安定になった心を落ち着かせるために、目の前にいる大好きな人の名前を呼ぶ。
「どうした、リン?」
マフラーを私に差し出す彼は、いつもの優しい目で、心配そうに私の目を見つめる。
——大好き、私はあなたを手に入れたい。
あなたが私しか愛せなくなれば、私はこんな汚れを気にすることなく、あなたとひとつになれる。
「アルトラ、私を助けようとしてくれて、ありがとう」
——私は、あなたを助けようとしていないのに。
私は——あなたを、苦しめようとしているのに。
……ねえ、アルトラ、大好きだよ。
あなたの全部がほしい、どれだけ汚れてしまっても、傷付いてしまっても。
——アルトラだけが、私の生きる意味だから。
大好きな彼の顔を見るために前を向くと、目の前にしゃがみ込んで、私を心配してくれる彼の姿があった。
——なんで、そんなに悲しい顔をするの?
マフラーを再び差し出した彼の手に、私は触れる勇気がない。
——やめて、今は、優しくしないで。
あなたを……私と同じところに落とすまでは。
気が付くと、冷たい頬に熱い涙が伝っていた。
……なんで私は、こんなに優しい人を、苦しめなくちゃいけないんだろう。
ただ、アルトラが大好きで、彼がどこかに行ってしまうのが怖い。
ねえ、助けてよ、アルトラ……
「大丈夫だよ、リン」
アルトラは私の首にマフラーを巻いて、はじめて私の頭を撫でてくれた。
不思議とゴワゴワした大きな手の暖かさが心地よく、怖かったはずのマフラーは、ぐちゃぐちゃになった私の心を落ち着かせてくれた。
「ずっと、一緒がいい……」
甘えるような声で——許されるはずもないのに、そんな言葉がこぼれてしまった私の頭を、アルトラは大きくて硬い両手で犬のように撫で回し、私の髪の毛はボサボサになる。
「いつものお返し。リン、大丈夫だから、これからも一緒にいよう」
朝のホームルーム5分前のチャイムが鳴る中、アルトラは座り込む私に手を差し伸べて、立ち上がるのを手伝ってくれた。
髪もボサボサで心も不安定な私は、アルトラに付き添われながら保健室に行き、保健室の先生がアルトラと私のクラスに二人が登校していることと、アルトラが教室に行くのが遅れる事情を説明してくれる。
先生に教室に戻るよう言われたアルトラは、一礼して保健室を立ち去り、自分の教室に帰っていく。
私がパイプ椅子に座りながら名残惜しそうに彼の方を見ていると、若い女の先生は、ある程度私が保健室に来た理由を察したようで、シャワー室の方から櫛を持って来ると、目の前の回転椅子に座って話し始めた。
「アルトラ君、噂と違って優しい子だね」
「……はい、すごく優しくて、強くて、いい人ですよ」
私がそう言うと、先生は嬉しそうな顔をして、櫛で髪を梳《と》く私に対して、診察と言う名の恋話《コイバナ》を始めるのだった。
「……で、いつから彼のことが好きなの?」
「えっ?」
「ほら、一応診察だからさ、恋の病の」
「ああ……えっと、多分……親にもうアルトラと会うなって言われて、その時から……」
「一番《いっちばん》燃えるやつじゃない、え、いついつ?」
「夏休みの間、アルトラが事件を起こして何日か経った日に……好きだって自覚しました」
「うわぁー、青春だぁ! いいなぁ、私もそんな恋してみたかったぁ!」
先生は回転椅子を一回転させながら、手を合わせて前後にくねくねする。
そんな先生に櫛を返すと、そのまま机の上に置いて、彼女は楽しそうに話を続ける。
「それで、彼が気持ちに気付いてくれなくて泣いちゃった?」
私が答えに困ってうつむくと、先生は私の方を見つめて、しばらくすると「無理に答えなくてもいいのよ」と言って机の方に椅子を回転させた。
「どうする? ベッド使うなら、マフラーは外してね。」
……先生にそう言われて思い出したが、アルトラのマフラーを借りっぱなしだった。
「あ……これ、返さなきゃ」
「えっ、アルトラ君のマフラーなの? しょうがないなぁ、特別に持ち込みを許可するよ」
「そ、そんな、教室戻りますよ、迷惑になりますし……」
私がそう言うと、丁度一時間目の開始のチャイムが鳴ったので、私は立ち上がって教室に戻ろうとした。
しかし、先生はそんな私を静止して、もう少し休むように言った。
「リンちゃん。真面目で頑張り屋さんなのは分かるけど、たまにはサボらないと、心が壊れちゃうよ」
……サボった所で、この心が治るとは思えない。
しかし、私の心が壊れているのは確かだった。
彼に必要とされたい、彼と一緒に居たい。
そのためなら、彼が不幸になっても——嫌だ、アルトラには幸せになってほしい。
——分からない、自分が《正義の証明》を成すべきか、《過去を哭けよアルトラ》を成すべきか、分からない。
彼がまた私を必要としなくなるのが怖くて、私は彼が幸せになるのが怖い。なのに、私は彼に幸せになってほしい。
アルトラは未来に進もうとしているのに、私は彼を過去に縛り付けようとしている。
「アルトラ……」
先生に背中を押され、カーテン付きのベッドに座った私は、一人で無意識に彼の名前を呼びながら、自分の心が引き裂かれるのを耐えていた。
「ごめんなさい……」
彼に気持ちを伝えればいいだけなのに、私にはどうしてもそれが出来ない。
身も心も汚れていて、捧げられるものも何もなくて、彼が不幸であり続ける限り、私は隣に居られるから幸せだ、なんて思ってしまう私が——アルトラと結ばれることなんて、許されない。
私は、彼と一緒に傷を舐め合うために、自らの傷を広げようとしたし、彼を騙して一緒に孤独になる為の計画まで立てているのだ。
私は——最低で、本当に彼の幸せを願うなら、いなくなるべき人間なのに。
この期に及んでベッドの上でアルトラのマフラーに顔を埋《うず》め、それを涙で汚してしまう自分が、嫌いで嫌いで仕方がなかった。
第15話『どっちが幸せ』
第15話『どっちが幸せ』
アルトラが私の頭を軽く撫でて、どこかに行ってしまう。
待って、と声を発しようとしたが——上手く言葉が出てこない。
彼が去っていった方に手を伸ばすが、足は上手く動かず、追いかけることも出来ず、私は彼を見失ってしまう。
……仕方がないんだ。
それがアルトラにとって『正しい選択』である以上、彼は歩みを止めることはない。
——でも、その『正しさ』を書き換える手段が、私にはある。
いつの間にか手に握られていたのは、アルトラがゲームで使っていたような拳銃。
私はそれで、迷い無く自分を撃つ。
——仕方がないんだ。
それが私にとっての『最適解』なのだから。
私が存在するためには、彼が必要なんだ。
アルトラは悲しそうな顔をしながら引き返してくる。
リン、死なないで。なんて言いながら。
私はアルトラに抱き付き、大丈夫だよ、と声を掛ける。ごめん、ごめんと泣くアルトラを抱き締める。
——彼が側に居てくれるなら、もう少し生きたいな、なんて考えながら、一番近くで彼の匂いを感じていた。
———————
暖かいマフラーの優しい匂いと、保健室の程よい重さの布団に包まれてすすり泣いているうちに、私は眠っていたらしい。
目を覚まして白いカーテンを開け、壁掛け時計を確認してみると、もうすぐ二時間目が終わりそうな時間だった。
「おはよう、リンちゃん。よく眠れた?」
若い女の先生は、回転椅子を回して私の方を向いて、優しい笑顔を見せる。
——アルトラの夢を見ていた気がする。
泣いてしまった彼を抱きしめる、幸せなのに不安な夢を。
「おはようございます。すみません、寝ちゃってました」
「ゆっくり眠るのも大事なの。少しは気分も落ち着いた?」
先生は机の上にあった櫛を私に手渡しながら言う。
——最近は毎晩毎晩、彼のことを考えてしまうので、確かに睡眠の質は落ちていたのかも知れない。
「どうする? もう少し寝ててもいいし、教室に戻ってもいいし、恋愛相談に乗ってもいいよ——こう見えても私、婚約者いるからね」
何故だが嬉しそうに指輪を見せる先生は、二時間目終了のチャイムが鳴る中、ガーッと回転椅子を滑らせながら、わざわざベッドの方まで持ってきていた。
「……相談、しても良いんですか?」
「もちろん。むしろ私が聞きたいから、話してよ」
……大人でも、恋話《コイバナ》に興味はあるんだ。
心の中でそう思いながら、私は先生にどこまで話すべきかを考えていた。
「その、私、色々あってアルトラとは付き合えないんです」
「えっ、さっき話してた親御さんのことで?」
「いえ……色々、です」
「おっけー、色々あるもんね」
「それでも、アルトラの一番近くにいたくって、なのに彼は少しずつ遠くに行ってしまおうとするから、それが辛くて、色々考えてしまうんです」
「そっか、色々ね」
先生は相槌を打ちながら、私の話を聞いてくれる。
——それで、先生が隠したいことに踏み込んで来ないせいか、私はむしろ隠すべきことを話してしまう。
「私、アルトラが独りぼっちになることを望んでしまうんです」
「そう、なんだ……」
「彼がみんなに受け容れられずに、寂しい思いを続ければ……私を頼ってくれるから」
——それは《過去を哭けよアルトラ》という、私の汚い欲望を全部、彼に飲み込ませるための計画。
彼を私と同じくらいに汚して、彼とドロドロに溶け合うための、最低の『正解』だ。
「——そっか、アルトラ君のこと、大好きなんだね」
「はい。でも、アルトラはみんなに受け容れられようとして、頑張ってる。なのに、私は——彼の足を引っ張りたいと思ってしまう」
先生はいきなりそんな話をし始めた私に困惑したような表情を見せた後、額に手を置いて「そんなに……」と言葉をこぼす。
——分かってる。
迷惑なんだ、アルトラにとって私はただの友達で、その人生を掛けてまでなんとかしようと思える存在ではないんだ。
周りから見て、私のやろうとしていることは、ただの『支配』で、『独占』で、彼の意思なんて尊重していない、最低の考えだということなんて、分かっている。
「だから——私は、自分が最低なことをしようとしているのは分かっているに、そうしなければ彼が離れて行ってしまう気がして……どうしたらいいのか分かんないんです」
先生は額に手を当てたまま「そっか」と言いつつ、少し躊躇したあとで、私に返事をする。
「……リンちゃんは、アルトラ君に『依存』し過ぎているんじゃないかな」
……そうだ。
私はアルトラに『依存』している。
私の過去を知っていて、痛みを知っていて、何度も助けてくれた、私だけのヒーローに。
——彼がもし居なくなってしまったら、私は間違いなく完全に壊れてしまう。
だから、私はアルトラと『共依存』関係になりたいんだ。
先生はそんな私の考えを見透かして、諭すように話し始める。
「アルトラ君は、みんなに受け容れられたら、リンちゃんを捨てちゃうの?」
「ちが……彼はそんな人じゃないです、彼は誰かが困っていれば、必ず助けてくれる」
私が、助けてと言えば。
私のために、どこにも行かないでと言えば。
——彼はきっと、そうしてくれる。
……でも、駄目だ。
私は綺麗なままのアルトラの重石《おもし》にはなりたくない。
「……リンちゃんは優しいから、アルトラ君に『依存』してることに気付いてるのに、それが彼の足かせになるのが嫌で——だから自由になったアルトラ君のそばに自分がいることを想像出来ないんだ」
——思わず「あっ」と声が漏れる。
私は、アルトラが居なくなるのと同じくらい、あるいはそれ以上に彼の重荷になるのが嫌で——だから、彼を地獄に引きずり込もうとしているんだ。
きっと、優しい彼は私を心配して、自由になったあとでも私のことを気に掛けて、そのせいで不自由になるだろう。
だから——そもそも私の想像の中には、自由になったアルトラの姿なんて、存在していなかったんだ。
「……二人だけで抱き合って傷を舐め合うのと、二人で手を繋いで一緒に歩くのって——どっちが幸せなんだろうね」
先生は、保健室からグラウンドを眺めながら、なんでもないように問いを投げた。
——そんなの、決まってる。
アルトラと、またあの花火大会の日のように、手を繋いで歩けたら。
恋人にはなれないとしても、またあんなに幸せな時間を一緒に過ごせるなら——
「手を繋いで、歩きたい、です」
震え始めた声を振り絞って、私は本当の望みを口にする。
——二人で自由になりたい、彼の幸せの隣にいたい、私は彼の泣き顔より、笑顔を見ていたい。
なのに……なんで私は、彼を不幸にしようとするんだろう。
本当は、彼を汚したくなんかない。
アルトラに、泣いてほしくなんかない。
その気持ちに気付いた私は、また涙を零してしまう。
ボロボロと落ちる涙は、胸の中にあった棘をどんどんと抜いていくようで、どこか満たされたような、どこか安らぐような気がした。
そっか。
私、本当は自分が許せないだけだったんだ。
犯されて、壊されて、こんなの私の人生じゃないって、あの日からずっと——アルトラを見つけるまで、自分を否定しなきゃ生きていられなかったんだ。
——いつか、私が汚れた自分を許せる日まで、愛し合える日は来ないかもしれないけれど。
そばにいて欲しい、笑顔でいてほしい。
そして、いつか。
——大好きだよって、伝えるんだ。
———————
保健室のシャワー室の入り口にある洗面台は、夏間の蛇口を除けば、校内では珍しい給湯器付きの水場で、涙に濡れた顔を洗うのに丁度よかった。
タオルを用意してくれてから、回転椅子を机の前に戻した先生は、そんな私を後ろから眺めながら、私に話しかける。
「いいなぁ、リンちゃんはメイクしてなくても可愛いから」
「……可愛く、ないですよ。よく泣くから、いつも目元が腫れちゃって」
「メイクしてるとアイシャドウがとんでもないことになるから、先生は泣いても可愛いあなたが羨ましいのよ」
そう言われて、少し照れながら脱衣所の横にあるカゴにタオルを入れて、先生の前のパイプ椅子に座る。
「うん、毒っ気が抜けた可愛い顔になった。少しは私も役に立てた?」
「はい。先生のお陰で、私、なんで悩んでいたのか分かって、何をするべきかも分かりました」
「うんうん、良かった。アルトラ君との恋に進展があったら、絶対に報告しに来るんだよ!」
そう言いながら先生は『保健室利用証』と書かれたプリントに利用時間と、利用事由の欄に『体調不良』とだけ書き、印鑑を押して手渡してくれた。
「先生、ありがとうございました」
「報告、楽しみにしてるからね!」
そんな挨拶をしながら、私は一礼をして保健室を後にしたのだった。
———————
授業中の静かな廊下では、各クラスの板書の音や先生の説明が聞こえてくる。
三時間目の途中、開けっ放しになっている教室の前側の扉をノックして、社会のおばあちゃん先生に『保健室利用証』を渡して軽く話をしてから、自分の席に戻る。
「英国《イギリス》の緯度は北海道よりも高いですが、冬期はロンドンの方が温暖で、それには偏西風が——」
カバンから教科書とノートを取り出したが、すぐに授業を再開した先生やクラスメイトに、今どのページの授業をしているかを聞くことも出来ない。
だから私は、隣の席の男の子が開いている地理の教科書のページを盗み見て、同じページを開いた。
そして、黒板に書かれている文章を左上から順に、ノートに書き写す。
——こんな、クラスに馴染めていない私が、みんなにアルトラの話をすることなんて出来るだろうか。
……いや、やらなくてはいけない。
アルトラと、もう一度手を繋いで歩くために、私は恐れなんて捨てて、愛する人のために頑張るんだ。
私は、彼のマフラーをこっそり抱き締めながら、そう決意した。
アルトラが私の頭を軽く撫でて、どこかに行ってしまう。
待って、と声を発しようとしたが——上手く言葉が出てこない。
彼が去っていった方に手を伸ばすが、足は上手く動かず、追いかけることも出来ず、私は彼を見失ってしまう。
……仕方がないんだ。
それがアルトラにとって『正しい選択』である以上、彼は歩みを止めることはない。
——でも、その『正しさ』を書き換える手段が、私にはある。
いつの間にか手に握られていたのは、アルトラがゲームで使っていたような拳銃。
私はそれで、迷い無く自分を撃つ。
——仕方がないんだ。
それが私にとっての『最適解』なのだから。
私が存在するためには、彼が必要なんだ。
アルトラは悲しそうな顔をしながら引き返してくる。
リン、死なないで。なんて言いながら。
私はアルトラに抱き付き、大丈夫だよ、と声を掛ける。ごめん、ごめんと泣くアルトラを抱き締める。
——彼が側に居てくれるなら、もう少し生きたいな、なんて考えながら、一番近くで彼の匂いを感じていた。
———————
暖かいマフラーの優しい匂いと、保健室の程よい重さの布団に包まれてすすり泣いているうちに、私は眠っていたらしい。
目を覚まして白いカーテンを開け、壁掛け時計を確認してみると、もうすぐ二時間目が終わりそうな時間だった。
「おはよう、リンちゃん。よく眠れた?」
若い女の先生は、回転椅子を回して私の方を向いて、優しい笑顔を見せる。
——アルトラの夢を見ていた気がする。
泣いてしまった彼を抱きしめる、幸せなのに不安な夢を。
「おはようございます。すみません、寝ちゃってました」
「ゆっくり眠るのも大事なの。少しは気分も落ち着いた?」
先生は机の上にあった櫛を私に手渡しながら言う。
——最近は毎晩毎晩、彼のことを考えてしまうので、確かに睡眠の質は落ちていたのかも知れない。
「どうする? もう少し寝ててもいいし、教室に戻ってもいいし、恋愛相談に乗ってもいいよ——こう見えても私、婚約者いるからね」
何故だが嬉しそうに指輪を見せる先生は、二時間目終了のチャイムが鳴る中、ガーッと回転椅子を滑らせながら、わざわざベッドの方まで持ってきていた。
「……相談、しても良いんですか?」
「もちろん。むしろ私が聞きたいから、話してよ」
……大人でも、恋話《コイバナ》に興味はあるんだ。
心の中でそう思いながら、私は先生にどこまで話すべきかを考えていた。
「その、私、色々あってアルトラとは付き合えないんです」
「えっ、さっき話してた親御さんのことで?」
「いえ……色々、です」
「おっけー、色々あるもんね」
「それでも、アルトラの一番近くにいたくって、なのに彼は少しずつ遠くに行ってしまおうとするから、それが辛くて、色々考えてしまうんです」
「そっか、色々ね」
先生は相槌を打ちながら、私の話を聞いてくれる。
——それで、先生が隠したいことに踏み込んで来ないせいか、私はむしろ隠すべきことを話してしまう。
「私、アルトラが独りぼっちになることを望んでしまうんです」
「そう、なんだ……」
「彼がみんなに受け容れられずに、寂しい思いを続ければ……私を頼ってくれるから」
——それは《過去を哭けよアルトラ》という、私の汚い欲望を全部、彼に飲み込ませるための計画。
彼を私と同じくらいに汚して、彼とドロドロに溶け合うための、最低の『正解』だ。
「——そっか、アルトラ君のこと、大好きなんだね」
「はい。でも、アルトラはみんなに受け容れられようとして、頑張ってる。なのに、私は——彼の足を引っ張りたいと思ってしまう」
先生はいきなりそんな話をし始めた私に困惑したような表情を見せた後、額に手を置いて「そんなに……」と言葉をこぼす。
——分かってる。
迷惑なんだ、アルトラにとって私はただの友達で、その人生を掛けてまでなんとかしようと思える存在ではないんだ。
周りから見て、私のやろうとしていることは、ただの『支配』で、『独占』で、彼の意思なんて尊重していない、最低の考えだということなんて、分かっている。
「だから——私は、自分が最低なことをしようとしているのは分かっているに、そうしなければ彼が離れて行ってしまう気がして……どうしたらいいのか分かんないんです」
先生は額に手を当てたまま「そっか」と言いつつ、少し躊躇したあとで、私に返事をする。
「……リンちゃんは、アルトラ君に『依存』し過ぎているんじゃないかな」
……そうだ。
私はアルトラに『依存』している。
私の過去を知っていて、痛みを知っていて、何度も助けてくれた、私だけのヒーローに。
——彼がもし居なくなってしまったら、私は間違いなく完全に壊れてしまう。
だから、私はアルトラと『共依存』関係になりたいんだ。
先生はそんな私の考えを見透かして、諭すように話し始める。
「アルトラ君は、みんなに受け容れられたら、リンちゃんを捨てちゃうの?」
「ちが……彼はそんな人じゃないです、彼は誰かが困っていれば、必ず助けてくれる」
私が、助けてと言えば。
私のために、どこにも行かないでと言えば。
——彼はきっと、そうしてくれる。
……でも、駄目だ。
私は綺麗なままのアルトラの重石《おもし》にはなりたくない。
「……リンちゃんは優しいから、アルトラ君に『依存』してることに気付いてるのに、それが彼の足かせになるのが嫌で——だから自由になったアルトラ君のそばに自分がいることを想像出来ないんだ」
——思わず「あっ」と声が漏れる。
私は、アルトラが居なくなるのと同じくらい、あるいはそれ以上に彼の重荷になるのが嫌で——だから、彼を地獄に引きずり込もうとしているんだ。
きっと、優しい彼は私を心配して、自由になったあとでも私のことを気に掛けて、そのせいで不自由になるだろう。
だから——そもそも私の想像の中には、自由になったアルトラの姿なんて、存在していなかったんだ。
「……二人だけで抱き合って傷を舐め合うのと、二人で手を繋いで一緒に歩くのって——どっちが幸せなんだろうね」
先生は、保健室からグラウンドを眺めながら、なんでもないように問いを投げた。
——そんなの、決まってる。
アルトラと、またあの花火大会の日のように、手を繋いで歩けたら。
恋人にはなれないとしても、またあんなに幸せな時間を一緒に過ごせるなら——
「手を繋いで、歩きたい、です」
震え始めた声を振り絞って、私は本当の望みを口にする。
——二人で自由になりたい、彼の幸せの隣にいたい、私は彼の泣き顔より、笑顔を見ていたい。
なのに……なんで私は、彼を不幸にしようとするんだろう。
本当は、彼を汚したくなんかない。
アルトラに、泣いてほしくなんかない。
その気持ちに気付いた私は、また涙を零してしまう。
ボロボロと落ちる涙は、胸の中にあった棘をどんどんと抜いていくようで、どこか満たされたような、どこか安らぐような気がした。
そっか。
私、本当は自分が許せないだけだったんだ。
犯されて、壊されて、こんなの私の人生じゃないって、あの日からずっと——アルトラを見つけるまで、自分を否定しなきゃ生きていられなかったんだ。
——いつか、私が汚れた自分を許せる日まで、愛し合える日は来ないかもしれないけれど。
そばにいて欲しい、笑顔でいてほしい。
そして、いつか。
——大好きだよって、伝えるんだ。
———————
保健室のシャワー室の入り口にある洗面台は、夏間の蛇口を除けば、校内では珍しい給湯器付きの水場で、涙に濡れた顔を洗うのに丁度よかった。
タオルを用意してくれてから、回転椅子を机の前に戻した先生は、そんな私を後ろから眺めながら、私に話しかける。
「いいなぁ、リンちゃんはメイクしてなくても可愛いから」
「……可愛く、ないですよ。よく泣くから、いつも目元が腫れちゃって」
「メイクしてるとアイシャドウがとんでもないことになるから、先生は泣いても可愛いあなたが羨ましいのよ」
そう言われて、少し照れながら脱衣所の横にあるカゴにタオルを入れて、先生の前のパイプ椅子に座る。
「うん、毒っ気が抜けた可愛い顔になった。少しは私も役に立てた?」
「はい。先生のお陰で、私、なんで悩んでいたのか分かって、何をするべきかも分かりました」
「うんうん、良かった。アルトラ君との恋に進展があったら、絶対に報告しに来るんだよ!」
そう言いながら先生は『保健室利用証』と書かれたプリントに利用時間と、利用事由の欄に『体調不良』とだけ書き、印鑑を押して手渡してくれた。
「先生、ありがとうございました」
「報告、楽しみにしてるからね!」
そんな挨拶をしながら、私は一礼をして保健室を後にしたのだった。
———————
授業中の静かな廊下では、各クラスの板書の音や先生の説明が聞こえてくる。
三時間目の途中、開けっ放しになっている教室の前側の扉をノックして、社会のおばあちゃん先生に『保健室利用証』を渡して軽く話をしてから、自分の席に戻る。
「英国《イギリス》の緯度は北海道よりも高いですが、冬期はロンドンの方が温暖で、それには偏西風が——」
カバンから教科書とノートを取り出したが、すぐに授業を再開した先生やクラスメイトに、今どのページの授業をしているかを聞くことも出来ない。
だから私は、隣の席の男の子が開いている地理の教科書のページを盗み見て、同じページを開いた。
そして、黒板に書かれている文章を左上から順に、ノートに書き写す。
——こんな、クラスに馴染めていない私が、みんなにアルトラの話をすることなんて出来るだろうか。
……いや、やらなくてはいけない。
アルトラと、もう一度手を繋いで歩くために、私は恐れなんて捨てて、愛する人のために頑張るんだ。
私は、彼のマフラーをこっそり抱き締めながら、そう決意した。
第16話『人は他人に興味がない』
第16話『人は他人に興味がない』
吹奏楽部や一部の委員会の人たちが給食の終わりと共に教室を飛び出していく昼休み、私は教室に残って談笑するクラスメイトたちの和に、どうやって混じれば良いのかを考えていた。
しかし、そうしていても決心ばかりが遅れて、結局何も出来ない気がしたので、私は他クラスの生徒も交えて四人で机を並べて話をしている女子グループに、結局ほとんど無策で話しかけた。
「えっと——東小出身の人って、いますか」
ほとんど知らない相手にいきなり話し掛けられた彼女たちは、互いに目を見合わせて、その内の一人が「私、東小出身だけど、なに?」と、警戒心を隠すこともなく答えた。
「その、アルトラ君のことが知りたくって、良かったら……えっと、話を聞きたいです」
そう言われて東小の子が周りに目配せをすると、彼女たちは「別にいいんじゃない」といった様子で肩を軽く上げるジェスチャーをする。
「話って言っても、私は|アルトラ《アイツ》が昔から悪いことをするのが好きだったってことくらいしか——バカヒ……五年の担任と大喧嘩になって、それっきり関わらなかったから、何も知らないんだけど」
東小の子はつまらなさそうにそう話す。一応「他に何かあるか」といったような態度で、コミュニケーションを続けようとはしてくれているが、同時に「早く失せろ」という雰囲気も伝わってくる。
——でも、私は逃げない。
これは、私の《正義の証明》の第一歩なんだ。
「えっと、その五年の担任の先生の話とかって、教えてもらえませんか?」
「バカヒロの話? みんな嫌ってたよ、可愛い女子にベタベタ触るし、バレー部の子なんてお尻触られたとか言ってたし。プールの授業で女子更衣室覗いたこともあるような変態だよ」
「えっ、なにそれ、ヤバい奴じゃん」
他の子が反応を示し、話題が受け容れられたことで、東小の子は話を膨らませる。
「それがさぁ、学校に言っても『仕事だから』でスルーされて、みんな嫌な思いしたのに、罰も受けないままだったんだよ」
「うわ、今だったら絶対《ヒャクパー》ニュースになるのに」
「最低じゃんその変態教師」
彼女たちは次第に前のめりになっていき、私の存在を忘れたかのように話を続ける。
「でもさ、アルトラがバカヒロのことを殴って、ケータイへし折ってプールに捨てて、大問題になったけど、正直ウチらはスカッとしたよね」
「マジ? ヤバすぎやんアイツ」
「それ聞いたことある、警察沙汰になったやつじゃん」
「この前も警察沙汰になってたらしいじゃん」
「らしいね、その時リンも一緒に居たんでしょ?」
クラスメイトが私にそう言うと、他の全員の少し驚いた目が私に向けられる。
唐突に戻ってきた会話のボールに、慣れない私は——取り調べを受ける気分を思い出した。
「あ、えっと、居ました、私が不良と高校生に捕まえられたのを、助けてもらって。」
「マジ? えっ、たまたま?」
「……彼と一緒に、遊びに行ってました」
「はぁーっ?」
東小の子が手を叩いて爆笑しながら、私を指差す。
——そして私は指を差されて、一瞬怯んでしまった。
「え、君アルトラの彼女? マジでいたんだ」
「ちが、彼女じゃ……」
「一緒にいて怖くないの?」
「やっぱりアイツってDVとかしてくる感じ?」
「もしかしてアルトラに脅されてる? 警察に相談したら?」
「違う!」
思わず大きな声で叫んだ私に、教室中の視線が集まる。しばらく教室が静まり返るが、ものの数秒でもとの賑やかさを取り戻す。
突然現れたハリネズミを抑えるために、私はひと呼吸を置いてから、ゆっくりと話を続ける。
「アルトラは……悪くない人を殴る人じゃないし、私は脅されてない。彼は誰かのために戦う、ヒーローなんだよ」
ゆっくりと彼女たちの目を順番に見て、必死で訴えかける。
——しかし彼女たちは、興が冷めたかのような顔を浮かべて「あっそ」というと、また四人で『アルトラの恋愛事情』について話し始めたのだった。
——やはり、人は他人に興味が無いのだ。
極論、勉強や社会の情勢すら、今の自分にとって役立たないと思えば、それを知ろうとする労力を払うより、人は目の前にある何かにしがみつこうとする。
私だって、人のことを言えた立場ではなく、アルトラを救う労力を払うより、彼を縛り付けてしまいたいと思ったのだから、きっとこれが人間の性《さが》なのだろう。
放課後の賑やかな玄関でそんなことを考えながら、マフラーを手に持ち、彼が一人でやってきたところを捕まえて、いつもの公園で話をすることにした。
「アルトラ、マフラーありがとう。暖かかった」
「よかった。昼休みに様子見に行ったら、元気になって戻っていったって言われたけど——心配してたんだ」
マフラーを受け取り、自らの首に巻いたアルトラは、今朝とは違う目をした私を見て、安堵の笑顔を見せた。
「あの、スズちゃんって、一緒にはいないの?」
「ああ、スズは美化委員だから、なんか落ち葉対策がどうのこうのでしばらく忙しいらしいよ」
「へぇ……後期の美化委員って大変なんだね」
「図書委員だって、読書の秋キャンペーンで忙しいんだぞ」
アルトラは何故か張り合うようにそう言うが——私は彼が委員会関係で忙しくしているところを見たことが無かった。
「まあ、なんにせよ、リンが元気になってくれて良かった」
苦笑いをする私を見て、アルトラは誤魔化すようにそう言ってくれる。
「うん——私、アルトラのために頑張るから」
——もう一度手を繋いで歩くために、私は彼に捧げられるものは、何だって捧げる。
これは、アルトラの《正義の証明》であると同時に、私の《愛の証明》なのだから。
そう思うと、明日が土曜日であるにも関わらず、私は一人燃え上がるような気持ちになった。
それからしばらく、事あるごとに私は人に話し掛け、鬱陶しがられながらも《証明》のために、奔走した。
そうしている内に、アルトラの過去の話やスズの証言より、むしろ『彼のために動く私』の噂が広まり始めた。
それで逆に私の話に興味を持ち始める人が出始めたのだから——結局、考えに考えて動くより、とにかく動いた方が良いこともあるのだと思い知らされるようだった。
色んな人に話をしていると、アルトラやスズからも話を聞いたという人もいて、中には『親アルトラ派』に『改宗』したという人すらいた。
不良撃退で彼を知り、過去の噂で彼に失望した人も、その過去の噂の真相を知ると、彼の『正義』を認めてくれた。
……私とアルトラの関係を知っていて、それを応援してくれる人もいたが、身内びいきを非難する人も多くいて、私は出来るだけ、アルトラと校内では会わないようになっていた。
それで、次にアルトラとゆっくり会えたのは、二週間後の土曜日だった。
「リン、久しぶり!」
彼の家に上がると、アルトラは喜んで私を玄関まで迎えに来た。
ソファベッドに二人で腰掛けると、アルトラは喜んで近況を報告する。
「リンとスズのお陰で、最近話しかけてくれる人が増えて来たんだよ。話にも誘われるし、『お前は間違ってない』って言ってくれる人もいて……」
かつて彼が『ヒーロー』として扱われた時、私は内心彼が離れて行ってしまうのを心配し、正直素直に喜ぶことなど出来なかったが、今の私は彼が喜ぶ顔を見て、幸せな気分になっていた。
「アルトラが嬉しそうで、私も嬉しいよ」
そんな私を見て、彼もまた更に嬉しそうに笑う。
——本当に《正義の証明》を選んで良かった。
《過去を哭けよアルトラ》を選んで、泣きながら苦しむ彼を抱きしめるより、こうして隣で笑顔を見せる彼を眺める方が、きっと、ずっと幸せだ。
——だから、私は少し調子に乗った。
「ねえ、アルトラ」
——私は頑張った。だから、欲張ろうとした。
「アルトラは、私のことをどう思ってるの?」
その質問に困惑した彼は、少し驚いた顔をして、それでも笑顔で私の方を見ている。
——でも、ああ。
ご褒美を貰うには、まだ少し早すぎたのかな。
「リン。僕にとって君は、一番の友達だよ」
アルトラは屈託のない笑顔で、きっと彼にとって一番の座に、私を置いてくれた。
吹奏楽部や一部の委員会の人たちが給食の終わりと共に教室を飛び出していく昼休み、私は教室に残って談笑するクラスメイトたちの和に、どうやって混じれば良いのかを考えていた。
しかし、そうしていても決心ばかりが遅れて、結局何も出来ない気がしたので、私は他クラスの生徒も交えて四人で机を並べて話をしている女子グループに、結局ほとんど無策で話しかけた。
「えっと——東小出身の人って、いますか」
ほとんど知らない相手にいきなり話し掛けられた彼女たちは、互いに目を見合わせて、その内の一人が「私、東小出身だけど、なに?」と、警戒心を隠すこともなく答えた。
「その、アルトラ君のことが知りたくって、良かったら……えっと、話を聞きたいです」
そう言われて東小の子が周りに目配せをすると、彼女たちは「別にいいんじゃない」といった様子で肩を軽く上げるジェスチャーをする。
「話って言っても、私は|アルトラ《アイツ》が昔から悪いことをするのが好きだったってことくらいしか——バカヒ……五年の担任と大喧嘩になって、それっきり関わらなかったから、何も知らないんだけど」
東小の子はつまらなさそうにそう話す。一応「他に何かあるか」といったような態度で、コミュニケーションを続けようとはしてくれているが、同時に「早く失せろ」という雰囲気も伝わってくる。
——でも、私は逃げない。
これは、私の《正義の証明》の第一歩なんだ。
「えっと、その五年の担任の先生の話とかって、教えてもらえませんか?」
「バカヒロの話? みんな嫌ってたよ、可愛い女子にベタベタ触るし、バレー部の子なんてお尻触られたとか言ってたし。プールの授業で女子更衣室覗いたこともあるような変態だよ」
「えっ、なにそれ、ヤバい奴じゃん」
他の子が反応を示し、話題が受け容れられたことで、東小の子は話を膨らませる。
「それがさぁ、学校に言っても『仕事だから』でスルーされて、みんな嫌な思いしたのに、罰も受けないままだったんだよ」
「うわ、今だったら絶対《ヒャクパー》ニュースになるのに」
「最低じゃんその変態教師」
彼女たちは次第に前のめりになっていき、私の存在を忘れたかのように話を続ける。
「でもさ、アルトラがバカヒロのことを殴って、ケータイへし折ってプールに捨てて、大問題になったけど、正直ウチらはスカッとしたよね」
「マジ? ヤバすぎやんアイツ」
「それ聞いたことある、警察沙汰になったやつじゃん」
「この前も警察沙汰になってたらしいじゃん」
「らしいね、その時リンも一緒に居たんでしょ?」
クラスメイトが私にそう言うと、他の全員の少し驚いた目が私に向けられる。
唐突に戻ってきた会話のボールに、慣れない私は——取り調べを受ける気分を思い出した。
「あ、えっと、居ました、私が不良と高校生に捕まえられたのを、助けてもらって。」
「マジ? えっ、たまたま?」
「……彼と一緒に、遊びに行ってました」
「はぁーっ?」
東小の子が手を叩いて爆笑しながら、私を指差す。
——そして私は指を差されて、一瞬怯んでしまった。
「え、君アルトラの彼女? マジでいたんだ」
「ちが、彼女じゃ……」
「一緒にいて怖くないの?」
「やっぱりアイツってDVとかしてくる感じ?」
「もしかしてアルトラに脅されてる? 警察に相談したら?」
「違う!」
思わず大きな声で叫んだ私に、教室中の視線が集まる。しばらく教室が静まり返るが、ものの数秒でもとの賑やかさを取り戻す。
突然現れたハリネズミを抑えるために、私はひと呼吸を置いてから、ゆっくりと話を続ける。
「アルトラは……悪くない人を殴る人じゃないし、私は脅されてない。彼は誰かのために戦う、ヒーローなんだよ」
ゆっくりと彼女たちの目を順番に見て、必死で訴えかける。
——しかし彼女たちは、興が冷めたかのような顔を浮かべて「あっそ」というと、また四人で『アルトラの恋愛事情』について話し始めたのだった。
——やはり、人は他人に興味が無いのだ。
極論、勉強や社会の情勢すら、今の自分にとって役立たないと思えば、それを知ろうとする労力を払うより、人は目の前にある何かにしがみつこうとする。
私だって、人のことを言えた立場ではなく、アルトラを救う労力を払うより、彼を縛り付けてしまいたいと思ったのだから、きっとこれが人間の性《さが》なのだろう。
放課後の賑やかな玄関でそんなことを考えながら、マフラーを手に持ち、彼が一人でやってきたところを捕まえて、いつもの公園で話をすることにした。
「アルトラ、マフラーありがとう。暖かかった」
「よかった。昼休みに様子見に行ったら、元気になって戻っていったって言われたけど——心配してたんだ」
マフラーを受け取り、自らの首に巻いたアルトラは、今朝とは違う目をした私を見て、安堵の笑顔を見せた。
「あの、スズちゃんって、一緒にはいないの?」
「ああ、スズは美化委員だから、なんか落ち葉対策がどうのこうのでしばらく忙しいらしいよ」
「へぇ……後期の美化委員って大変なんだね」
「図書委員だって、読書の秋キャンペーンで忙しいんだぞ」
アルトラは何故か張り合うようにそう言うが——私は彼が委員会関係で忙しくしているところを見たことが無かった。
「まあ、なんにせよ、リンが元気になってくれて良かった」
苦笑いをする私を見て、アルトラは誤魔化すようにそう言ってくれる。
「うん——私、アルトラのために頑張るから」
——もう一度手を繋いで歩くために、私は彼に捧げられるものは、何だって捧げる。
これは、アルトラの《正義の証明》であると同時に、私の《愛の証明》なのだから。
そう思うと、明日が土曜日であるにも関わらず、私は一人燃え上がるような気持ちになった。
それからしばらく、事あるごとに私は人に話し掛け、鬱陶しがられながらも《証明》のために、奔走した。
そうしている内に、アルトラの過去の話やスズの証言より、むしろ『彼のために動く私』の噂が広まり始めた。
それで逆に私の話に興味を持ち始める人が出始めたのだから——結局、考えに考えて動くより、とにかく動いた方が良いこともあるのだと思い知らされるようだった。
色んな人に話をしていると、アルトラやスズからも話を聞いたという人もいて、中には『親アルトラ派』に『改宗』したという人すらいた。
不良撃退で彼を知り、過去の噂で彼に失望した人も、その過去の噂の真相を知ると、彼の『正義』を認めてくれた。
……私とアルトラの関係を知っていて、それを応援してくれる人もいたが、身内びいきを非難する人も多くいて、私は出来るだけ、アルトラと校内では会わないようになっていた。
それで、次にアルトラとゆっくり会えたのは、二週間後の土曜日だった。
「リン、久しぶり!」
彼の家に上がると、アルトラは喜んで私を玄関まで迎えに来た。
ソファベッドに二人で腰掛けると、アルトラは喜んで近況を報告する。
「リンとスズのお陰で、最近話しかけてくれる人が増えて来たんだよ。話にも誘われるし、『お前は間違ってない』って言ってくれる人もいて……」
かつて彼が『ヒーロー』として扱われた時、私は内心彼が離れて行ってしまうのを心配し、正直素直に喜ぶことなど出来なかったが、今の私は彼が喜ぶ顔を見て、幸せな気分になっていた。
「アルトラが嬉しそうで、私も嬉しいよ」
そんな私を見て、彼もまた更に嬉しそうに笑う。
——本当に《正義の証明》を選んで良かった。
《過去を哭けよアルトラ》を選んで、泣きながら苦しむ彼を抱きしめるより、こうして隣で笑顔を見せる彼を眺める方が、きっと、ずっと幸せだ。
——だから、私は少し調子に乗った。
「ねえ、アルトラ」
——私は頑張った。だから、欲張ろうとした。
「アルトラは、私のことをどう思ってるの?」
その質問に困惑した彼は、少し驚いた顔をして、それでも笑顔で私の方を見ている。
——でも、ああ。
ご褒美を貰うには、まだ少し早すぎたのかな。
「リン。僕にとって君は、一番の友達だよ」
アルトラは屈託のない笑顔で、きっと彼にとって一番の座に、私を置いてくれた。
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