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  それを
    《正義》
      と呼ぶらしい
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あらすじ

 再びアルトラを地獄に落としたケイだったが、リンとスズの『ホンモノ』に触れた彼は、自ら地獄に落としたアルトラを、『にせもの』の世界に引き揚げた。
 ケイは結局、自分が何をしたいのかも分からないまま、何か答えを見つけたスズに『何を信じて生きるのか』を問うと、彼女は『将来』を信じて生きるのだという。
 彼が『未来』の果てに待つ『終点』、《死》という絶対の裏切りを考えていると、スズは不安定になったケイを心配し、少しの間彼といる事にした。
 そのほんの少しの間に、ケイは事故に遭ったのだった。

場面1『祈り』

『にせもの』

【第三章】『幸せ』

「おや、スズちゃん、今日も来てくれたのかい。」

 ケイのおばあちゃんは、夏服のまま訪ねて来た私を快く受け入れ、「さあさ、座って」と、私に着席を勧める。
 「おばあちゃん、ありがとうございます。」と私は頭を下げ、言われるままに着席する。

「ケイ……ごめんね、私のせいで……。」

 春が終わり夏が来て、夏休みが終わり、新学期が始まるまでの4ヶ月間、ケイは一度も私に返事をしてくれる事は無かった。
 それでも、私は彼のもとに通い続け、いつか神様が私の願いを──もう一度叶えてくれる時を、ただ待ち続けていた。

「お願いします、神様、どうかケイを返して……。」

 私は、沢山の管に繋がれて、病室のベッドで眠り続けるケイの頬に触れながら、泣きながら神様に祈った。
 これは、私の呪い──みんな地獄に落ちますように、という願いが神様に届いた結果なのだろう。
 だから神様に祈らずにはいられない、どうかケイが目を覚ましますように、と。

 だが、そんな『祈り』はこの4ヶ月、届く事もなく、ただ目の前の現実だけが、私の『呪い』が私自身をも地獄に落とした事を表しているようだった。
 みんなが不幸になれば、きっと私は幸せになれると、そう思っていたのに──。

ーーーーーーーーー

「スズちゃん、もしよかったら、放課後に三人でお買い物でも行かない……?」

 翌日も私は変わらず登校し、いつも通り独りで、私を心配する友人の話を聞き流しながら、朝から一日が終わるのを待っていた。
 そんな日の朝のホームルーム、先生は皆の前で言った。

「昨日、ケイくんが目を覚ましたそうです。そこで、皆にケイくんに対してメッセージカードをーー」

 私は、先生の話が終わるのを待つ事なく、机が倒れる程の勢いで立ち上がった。
 周りが驚くのを無視し、先生が私を制止しようとするのを無視し、私はカバンも持たずに教室を飛び出す。
 そのまま、すぐ近くにある県病院ーーケイが待っている場所まで、学校を抜け出して、走って向かった。

 ケイ、ああ、神様、ケイが目を覚ましてくれた、ありがとうございます、神様……!
 話を聞いてからわずか10分程で、ケイのいる病室まで走り、エレベーターの中で少し整えた呼吸で、ケイに何かを言おうとする前に、ケイのいつものように棘のある言葉が飛び出した。

「そんなんだからトラックに轢かれかけるんだよ、馬鹿が。」

 私は思わず、ずっと心待ちにしていた彼のそんな言葉に涙した。
 「ケイ、ケイ、ケイ……!」と、私は思わず少し管の外れたケイに抱き着いており、ケイは「おま、やめろ、おばあちゃんの前で……!」などと言いながら、私を引き離そうとした。

 「あらあら。」と、先に泣きやんでいたおばあちゃんはそんな私達を微笑みながら見つめ、ケイも次第に泣きつく私に向けて、──初めて優しい笑顔を向けてくれていた。

場面2『執行者と代弁者』

 9月の末、ケイは無事に退院し、ケイのおじいちゃんの送迎で学校に来た。
 それを聞きつけたアルトラは、真っ先に私達のクラスにやってきて、皆の前でケイに頭を下げた。

「ケイ、まずは、ごめん。」

 5ヶ月前の暴力沙汰の件について、彼はずっとケイに謝りたいと口を零していた。
 ケイの真意が、私の『怒り』をアルトラに伝え、私の代わりにアルトラを罰する事にあったのではないか、と彼は気付き、それに対して暴力で答えたのは、単なる逆ギレであったと、ずっと言い続けていた。

 つまり、アルトラは間接的に私を蹴ったのだと。
 《正義》の代弁者を力で黙らせた事を反省していたらしい。

「……トラックの一撃に比べたら、お前の蹴りなんてなかったも同然だ。」

 そんな返事を受けたアルトラは、頭を掻きながら「ありがとう……?」と、許されたのか許されていないのかよく分かっていない、といった様子で答えた。

「ケイくん、私からもありがとう。おかえりなさい。」

 リンもアルトラの暴力事件について、ケイが謝罪に応じて皆に説明をしてくれた事について感謝し、彼がこうして教室に帰ってくる事を喜んだ。
 ケイはそんな事を言うリンに「良い土下座だった」と言って嗤うと、リンは動こうともしないアルトラをいつでも止められるように警戒しているようだった。

「まあ……さしずめ僕らは《正義》の執行者と《民意》の代弁者って訳だ。形は違えど、誰かを傷つける事で存在を証明しているのさ。」

 「お互い様だ」と、ケイはいつもの歪んだ微笑みをアルトラに向ける。
 そんな『暴力』の正当化が出来ればヒーローに、出来なければ悪人になる。

 そして、それを判断する『にせもの』に振り回されるのが『弱者』で、そんなものを気にしないのが『超人』なのだと。
 つまり『超人』とは、必然的に『にせもの』から嫌われ、悪人とされる定めにあり、それを目指す以上、誰からも期待されず、尊敬もされず、ただ孤独になるしかない。
 ケイは、そんな生き方を選んだのだ。

 ──でも、私はそんなケイに何かを期待しているし、少しは尊敬している。
 多分私は、目の前にいる不器用なこの男に、新しい恋をしているのだろう。
 彼の心の奥底の、隠しきれない優しさに気づいてしまったから。

場面3『幸せ』

 足の骨と筋肉が幸いにもくっついて、少しだけ歩けるようになったケイを家まで送るのは、私の新しい日課になった。
 おじいちゃんが迎えに来てくれる日もあるが、大抵は仕事の都合で帰りは歩きになるし、おばあちゃんは私を信用して「任せたよ、スズちゃん」などと言い、私達の邪魔をしないように気を使っているようだった。

「ケイ、お前が良ければ背負(おぶ)ってやるけど……」

 という、アルトラの提案に対してケイは「嫌だよ、お前の機嫌損ねたら落とされかねないし。」と言い、そもそも一緒に帰る事自体を「土下座女に悪い」と言って拒否した。

「私はおばあちゃんに頼まれてるし、断られても送ってくからね。」

 そう宣言する私にケイは「好きにしろ」と言いながら、歩行の補助となるべき杖と、荷物を私に押し付けていた。
 投げつけられたケイの上着からは、ケイの家の匂いがして、なんだか少し安心感を覚えた。
 ──この時間が幸せだ。でも、ケイの言うとおり、時間はやがて流れ、ケイの体が良くなればこの日課も終わってしまうだろう。

 むごい事に、そういう幸せな時間ほど経つのが早く、ケイに言わせれば幸せなほど『未来』の果ての悲劇が近付くのだ。
 それが彼の『幸せ恐怖症』の正体なのだとしたら、私はこれ以上彼に近付く事は出来ないだろう。
 それでも、この微妙な距離感が心地良かった。

「私は、リンにひどい事をしたかな。」

 ふと、帰り道でそんな言葉が口から漏れた。
 それを聞いたケイが「何故?」と私に訊ねる。

「だって、リンは私が現れなければアルトラと、もっとゆっくり幸せな時間を過ごせていただろうし、あんなに苦しませる事もなかっただろうから。」

 「なおさら何故?」とケイは疑問を持つ。

「正直、罪悪感があった。前にも話したけど、私が抜け駆けしなかったのは、本当にアルトラが付き合うべきなのはリンだと、心の底では思ってたからだし。」

 「それ答えになってるか?」と、ケイは私の話に苦言を呈する。
 ああ、意外と言葉の裏を読むのが苦手なんだな、と思いながら、私は話を続けた。

「私が何もしなければ二人は焦らず、なんの負い目も感じる事なく自然と付き合って、それまで今の私と同じようにゆっくり幸せを感じられたのに──」

 そこまで言って、私はこれが実質告白じゃないかと気付いた。
 ケイも流石に気付いたらしく、「あ、ああ、そういうことか」と言いながら、平静を装った。

場面4『笑顔の時間』

「スズちゃん、いつもありがとうね」

 そう言いながら杖と上着を引き受けてくれるおばあちゃんは、いつもと違い赤面するケイを見て、「あらあら」と嬉しそうに笑いながら、キッチンの方に向かっていった。
 私は靴を脱ぎながら「お邪魔します」と言いつつ、二人分のカバンを持って、十分元気に階段を駆け上がり部屋へと逃げていくケイのあとを追った。

「そんなに元気なら自分でカバン持てばいいのに。」

 ケイの部屋にカバンを置きながらそう言うと、ケイは「うるさいなぁ、好きにしろって言ってるじゃん」と、こちらに顔も向けずに言う。
 一瞬、照れくさいような雰囲気があり、まるでそれを誤魔化すかのように、溢れた私の静かな笑いが、ケイにまで伝播する。

「あれ、ケイも笑うんだ、初めて見たかも。」

 ケイはまるで笑顔を隠すかのように──そもそも私には背を向けているのに、口元を手で覆いながら「ふふっ」と笑う。

「ふっ……ちが、いや僕だって、たまには笑っても良いじゃんか。」

 ああ、この不器用な男にも可愛い一面もあるんだな。
 そう思うと、一層笑いが止まらなくて、思わず「あははっ」と、声になる程の笑みが浮かんでしまった。

「だって……僕だって、スズといると、少し幸せになれる。」

 回転椅子でこちらに向き直って、真顔でそう言うケイに、私は驚きと喜びと感激で「えっ……」と、耳まで赤くなるような気持ちが口から零れた。

「ばーか、お返しだよこのチョロ女。」

 そう言いながらケイは、今まで見たことが無いくらい、手を叩きながら爆笑し、私が「もう──!!」と、笑いながら叩くジェスチャーをするのを見て、更に二人で爆笑した。
 幸せだ。彼と分かり合えるこの時間が、彼の笑顔を見られるこの時間が。

 リン、貴女が見てきた、誰にも譲りたくない気持ちって、こういう時間が作るのかな。
 今なら分かる、貴女が何故私を裏切ったのか、何故私を傷つけてでも彼を奪い返そうとしたのか。
 今なら、心の底から喜びを感じる今なら、貴女の事を許せるよ──。

場面5『収穫祭』

 10月最後の土曜日、すっかり体も治り、笑顔の増えたケイを誘って、私の家の社(やしろ)で行われる『収穫祭』に行くことになった。
 世間一般のハロウィンと日の近いこの祭りは、神道の社に西洋のコスプレをした子供がやって来るような、なんとも統一感のない──ある意味では日本らしい、文化のサラダボウルみたいな祭りだった。

「しかも盆踊りまでやっているとなると、いよいよなんの宗教の祭りかわからんな……。」

 「盆踊りではないんだけどね……」と、巫女服を着ながら言う私は、櫓を組んで太鼓を叩く「念仏踊り」が依然として仏教由来だと知っているので、それ以上何も言えなかった。

「まあ、あなたは東小の夏祭りにも行けなかったんだし、ちょうど良いんじゃない?」

 6月の中頃にあるこの地域で有名な祭りは、結局例の事故のせいで私も行く気にはなれず、結局まともに遊びに行くのなんて──アルトラに振られて以来初めてかもしれない。

「いや、祭りなんて両親の──事故以来、初めて来るからな。それこそ最後に行ったのが3年前の東小夏祭りじゃないか?」

 そういえばそうだった、ここ最近笑う事が多くて忘れていたけれど、ケイはつい最近まで心に大きな傷を負っていて、それこそ遊びに行く気なんて起きなかったんだろう。

「まあ……一緒に楽しみましょう、多分今年はリンたちも来てるから、一緒に回っても良いし。」

 「ダブルデートか」などと言うケイに私は何も言わなかったが、実質そういう事だ。
 ケイとはまだ正式に付き合っているわけではないが、私達は今、事実上の恋人関係にある。
 そんな人と、私の初恋が始まった祭りに参加しているのだから、なんだか不思議な感じだ。

 ふと、唯一祭りの体裁を保っている本殿の、燭台に載せられた蝋燭の揺らめくのを見て、あの日の事を思い出す。
 ──アルトラと会ったのが、ちょうど一年前のこの祭りの日だった。

 彼は、悪ふざけで堂々と賽銭泥棒をしようとする不良達相手に一人で「何してるんだ」と怒鳴りつけ、社の中で祈祷を行っていた両親やご老人達が、誰も止めようとしなかった奴らを一人で追い払ってくれた。

 当時、彼はリンと『信頼を取り戻す』為にあれこれ頑張っていて、本当であれば厄介事に巻き込まれるのは良くないタイミングだったのに、それを省みず私達を助けてくれた。
 そんな彼が自分達の為に戦うか、隠れて逃げるかの選択に悩んでいるという話を聞いて、あなたなら戦えると、無責任に言ったのを思い出した。
 それで彼は決意して、リンと共に戦って、信頼を勝ち取った。

 今年はリンも来ているみたいだし、せっかくだからリンにも巫女服の私を見てもらいたい。

場面6『燃える』

 リンとアルトラは、やはり一緒になって屋台巡りをしていた。
 アルトラは去年と同じ甚平で、リンは可愛らしい浴衣で遊びに来ていた。

「スズちゃん……!?えっ、巫女服かわいい!!」

 私の正装を見て、リンは興奮したようにそういう。
 アルトラも「ね?似合ってるだろ?」と、何故か得意げにそう言ってくれた。

「なんだ、私服着てる僕には無反応かよ。」

 ケイは二人に対して少し歪んだ感じの笑みでそう言う。
 「そういや何年ぶりだ、ケイの私服見るのって」と、アルトラが上下真っ黒のケイの私服を見ながら言った。

「そんな格好だとまたトラックに轢かれるよ?」

 と、リンがブラックジョークを放つと、みんな爆笑しながら過去を笑い飛ばした。



 ──楽しい時は、残酷なまでに一瞬で過ぎていき、その分『未来』の果ての悲劇が近付く。
 何を信じていようと、いなかろうと、幸せはやがて終わり、時間は次から次へと、新しい悲劇を運んで来る。

「おい、社(やしろ)が燃えておるぞ!!」

 村の老人が、うちの本殿を指差す。
 祭りの賑やかさが、一気に不安と野次馬根性に乗っ取られる。
 ──木造の社の中には両親と、足の悪いご老人達や、何より父が大切にする『御神体』があり、見る見るうちにたった一か所の入り口が燃え、障子を伝って火が素早く屋根まで燃え上がるのを、野次馬達は悲鳴や怒号をあげて眺めていた。

「お父さん……お母さん……?」

 私の足は自然と、燃え上がる社の方にゆっくりと近付いていく。
 「待て、スズ、おいアルトラ、止めろ!」とケイが叫ぶと、アルトラはハッとしたように私の腕を掴み、私が火中に向かうのを防ぐ。
 私の安全が確保されたのを見届けると、ケイは事務所の方に走っていくと、消化器を持ち出して本殿の方に向かう。

「バケツを!入り口だけでも消火しないと、全員閉じ込められる!」

 そう叫ぶ彼の声に反応して、喫煙所や事務所の掃除道具置き場から、バケツを持った参拝者達が手水舎から水を汲み上げると、リレーする事もなく本殿に向かい走っていった。

 「おい、こっちに投げろ!」と手水舎の方で空のバケツを待つ男は叫び、水を撒き終わった男はブリキのバケツを勢い良く投げて、少しでも早く水が早く届くように努力していた。

 「クソ、もう空だ!」と叫ぶケイだが、彼のおかげでご老人達や、その肩を支える母は脱出に成功し、すぐに消防車の音も聞こえ始める。

 「早く避難を──何をしてるんだ、それはもう無理だ!」
 多分、ケイと父以外の全員の脱出が終わるが、何故か父は出て来ない。
 まさか、この期に及んで『御神体』なんかに固執しているのか。

「クソッ……もう無理だ、崩れる!」

 ケイがそう叫びながら、悲鳴を上げる木材の檻から距離を取ると、すぐに悲鳴は断末魔に変わり──本殿は、父を飲み込んで倒壊した。

場面7『ごめんなさい』

「これを!燃やしちゃいけない、これは先代が賜った『御神体』で──熱いっ!!」
 轟々と燃える本殿の中から、父の声が響く。

「ああっ!──燃える!分霊(わけみたま)が燃える、誰か──火を消してくれ!」
 父の最期の声を聞かされる母は、膝から崩れ落ち、それでも社は容赦なく、閉じ込められた父を焼き殺そうと、勢いを増していく。
 ここで十数段の階段を、消火栓から繋がったホースを持って駆け上がってきた消防隊が到着したが──もう遅い。

「熱い──!まさか、そんな、ここで死ぬのか──」
 更に崩れた社は、大きな音を立てて父を焼き始め、直後に一際大きな叫び声が──断末魔が聞こえ始める。
 アルトラは目を背けながら、必死で私の耳を塞ぎ、その横でリンはうずくまり、自分で耳をふさいで泣いている。

 ああ──私が願った事は、全部叶えてくれたんだね、神様。

「ああぁぁぁぁあああっっっっ!!!!あつい!あつい!あついぃぃぃいい!!!」

 ごめんなさい、ごめんなさい、みんなを地獄に落としてごめんなさい、苦しませてごめんなさい、もうやめて、やめて、やめてください。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい──」

 吐くほど叫びながら、膝から落ちて倒れながら、アルトラに抱き支えられながら、私は謝った。
 もう許してください、許してください、神様、どうか許してください──。


ーーーーーーーーー

 出火原因は、蝋燭台の転倒と、燃料として使われていたサラダ油への引火だった。
 更に木の手入れに使われたワックスと、障子の炎上による素早い火の伝播が、木造の社を一瞬で燃やし尽くした。

 消火された社からは、スズの父と思われる──いや、確定だ。スズの父が遺体となって見つかり、形式上のDNA鑑定を経て、彼女の元に死亡診断書と共に送られるだろう。

「その、ケイ。こんな事を言うのもおかしいけども、お前は悪くないからな。」

 アルトラは気を使っているのかなんなのか、登校するなり僕にそんな事を言った。

「そりゃ、自分が悪いとは別に思ってないけど──お前、スズに絶対そんな事言うなよ。」

 「そ、それはごめん」と、アルトラはどうしたらいいのか分からないといった様子で、チャイムと同時に気まずそうに教室へと戻っていった。
 アルトラ曰く、リンはショックで昨日から寝込んでいるらしい。
 スズは──あれから連絡もつかず、あまりに心配なので、今日あたり一度訪ねて見るかどうか悩んでいる。

 ──彼女の心の傷は、しばらく癒えることはないだろう。
 それでも、かつて同じ苦しみを味わい──彼女に救われた僕なら、彼女の傷を少しでも埋めてやる事が出来るだろうか。
 元々聞いてもいない授業が、大雨のせいで今日はいっそう耳に入って来やしなかった。

場面8『人を呪わば』

 神様、私を殺してください。
 神様、どうか私を殺してください。
 私は、みんなを呪い、みんなを苦しませました。
 私は、神様になったつもりで、みんなに八つ当たりしました。
 罰を与えるなら、私にしてください。
 もう誰も傷つけないでください。
 神様、私を殺してください──

 大雨の中、まだ燃えた匂いが残る本殿の前で、父の遺体から引き剥がされ、打ち捨てられたままの御神体に、ひたすら祈った。

「……スズ、風邪ひくぞ。」

 私が地獄に落とした一人は、そう言いながら私に上着を被せ、傘を差し出す。
 ──今の私に、優しくしないで。

「私が、罰を受けるから、お願いします、もう許してください……。」

 頬を伝うのが雨か涙かわからないまま、私は神様に祈る。
 私を地獄に落として欲しい、私をどうか殺してほしい。
 両腕両膝を泥の上につき、頭を地面に擦りつけながら、必死で祈る。

「スズ、止(よ)すんだ。」

 ──熱いくらい温かい手が、私の右手に触れる。
 やめて、優しくしないで。私が罰を受けるまで、お願いだから優しくしないで。

「冷たい手してんな。」

 彼の両手が、結局傘も捨てて私の右手を奪い、握り込む。
 やめて、今私が地獄に落ちなきゃ、みんなに顔向け出来ない。

「ほら、行くぞ。」

 ケイは、私の手を温かく包んだまま、泥だらけの地面に膝をつき、私の左肩を温めた。
 やめてよ、このまま私を死なせて。もう誰も呪いたくないから、私をここで終わらせて。

「……なあ、スズ。僕は君に救われたんだ。地獄になんて落ちてない。」

 私の心を読んだケイは、そう言いながら私の頬に自分の額を重ねて、温める。
 なんで、私は生きてちゃいけないのに。

「──私を死なせて、ケイ、お願いします。」

 私のそんな言葉を聞いても、ケイはさして驚かず、濡れた手で私の泥だらけの額を洗う。

「そんな簡単に人は死なないし、低体温症になってんならすぐに救急車を呼ぶだけだ。」

 ケイは私の左頬を手で温め、私の涙と冷たい雨を親指で拭う。
 そのせいで、私の頬にはまた、温かい涙がこぼれてくる。

 もうやめて、ケイ。私が幸せになることなんて、もうないから……。

「私には幸せになる権利も、方法も、そもそも何かを喜ぶ意味も、もうない。私はここで、出来るだけ惨めに、地獄を耐えて死ななきゃいけないの。」

 私のそんな言葉を聞くと、ケイは正面から私に強く抱き着き、私の身体中を温める。
 それで、ケイは泣きながら、私の肩に頭を置きながら、強く、強く抱きしめる。

「幸せなんて、僕が定義してやる!喜びの意味だって、僕が与えてやる!だからもう、これ以上自分を呪うな……!」

 ケイの震える身体は、私の心まで揺さぶるようで、気が付けば私はケイの背中に手を回し、大声でうわんうわんと泣いていた。

場面9『委ねる』

 粛々と進んだ神道式の葬儀は、忙しさでむしろ母の気も紛らわせてくれているらしい。
 家で『行方不明』の父を待つ間の、茫然自失とした母の姿はそこにはなく、神職の妻としての仮面をしっかりと被り、気丈に振る舞った。

 葬儀も終わり、忌引中毎日訪ねてくれたケイと、可能な限り日常的な会話をし、あの光景がフラッシュバックする度に「よしよし、大丈夫だ。」と、胸を貸してくれた。
 憐れむような彼の愛は、仮面の割れた私を優しく包み込み、私はそれを時には嬉しく思い、時にはかえって惨めになりつつ、それでも彼に、少しずつ心を委ねていった。

 一週間の忌引が終わる前、いつも通り放課後に私の様子を見に来てくれたケイの胸に身を委ね、気が付くと安心して眠ってしまっていた。
 目が覚めるとすっかり日は暮れており、それでも彼はずっと私を支えてくれていたみたいだ。
 11月の中頃の寒空の下、ケイが上着を羽織らせてくれたおかげで私は暖かかったが、彼は少し寒そうだった。

「ケイ、だいじょうぶ?さむくない?」

 私は寝ぼけたまま、すっかり冷えきったケイの身体を暖めるように抱きしめ、目の前の愛しの彼の頬に、キスをする。

「ありがとう、大丈夫だ。」

 ケイはそんな私の頭を撫でながら、しっかりと私を抱きしめてくれる。
 ──このままずっと彼に甘えていたい、他の誰よりも私を愛してくれる、優しい彼に全てを委ねていたい。

ーーーーーーーーー

 スズは僕の頬にしばらくキスをしたあと、また眠ってしまった。
 そんな彼女が風邪をひかないよう、懐で暖めてやる。
 ──親を亡くす辛さは、僕にも分かるし、こんな時誰かが側にいて、傷を埋めてくれればどれだけ救いになるのかを、誰よりも知っているつもりだ。

 神様の燃えかすが祀られた小さな木箱は、彼女の痛みを分かち合ってはくれないし、僕達を裏切り続ける世界は無感情過ぎて、辛い時に寄り添ってくれたりはしない。

 もはや何一つとして信じられず、何一つとして期待出来ない世界で、孤独に生きていくのはあまりにも辛い。
 そうやって裏切られ続け、必然的に『ニヒリズム』に到達し、そこから脱するにはまた不安定な何かに期待して、再び裏切られるのを繰り返すしかない。

 そんな無限ループから抜け出す手段の一つが『超人思想』であり、つまり絶対的に自分を信じる事で、そもそも裏切られない様にするという試みがそれだった。

 しかし、時には自分だって自分を裏切る。
 どうでもいいはずの他人を守る為に命を落とす事すら厭わないのだから、自分の気持ちが自分の信念を捻じ曲げ、簡単にそれまでの生き方を否定する事だってある。

 もう一つの手段は、『超人思想』の開祖が最終的に到達した答えである『死』であり、生きない事で生きる苦しみから脱する、という究極的で本末転倒な回答であった。

 笑うしかない、『ニヒリズム』からの脱却を図ったニーチェ自身が『自死』による脱却を選んだのに、僕は『超人思想』こそが唯一の正解で、その先に『真理』があると信じていたのだから。

 そして、僕が導いた別解が『委ねる』ということだった。
 それと心中出来る程の何か──祈りだったり、夢だったり、愛する人だったり、それ『こそ』がこの苦しい世界で生きる『意味』なのだと思える程の何かに、裏切られても構わないから『依存』する事こそが、『ニヒリズム』から逃れる一番簡単で、誰でもやっている事なんじゃないだろうか。

場面10『永劫回帰』

 結局のところ僕達は『ニヒリズム』から逃れる為に、何かを死ぬ程信じ、夢見て、愛するしかないのだ。
 それが次の『ニヒリズム』に繋がるのだとしても、僕らは『その為に死ねる何か』を手に入れる事でしか、自分を生きる事が出来ないのだろう。

 皮肉な話だ、僕らは『にせもの』の中で自分を生きる為に、『にせもの』を信じる事でしか『ホンモノ』の自分を保てないのだから。
 決して逃れる事の出来ない『にせもの』の裏切りを、次から次へと時間というウェイターが運んで来る『苦しみ』のフルコースを、楽しむにはやはり何かへの『絶対的な依存』がなければいけない。

 そもそも『ニヒリズム』はそんな人生の苦しみの一つに過ぎず、それをそもそも無くそうだなんて試み自体が荒唐無稽で、実現不可能なのだろう。


 ──ニーチェの思想は、失敗だった。

ーーーーーーーーー

「スズ、おはよう。」

 久しぶりに登校しようとする私を、ケイは朝早くから、わざわざ迎えに来てくれていた。

「ケイ……あの、昨日はごめん、寒かったよね……。」

 結局8時過ぎくらいまで、寒い中上着も奪ったまま彼を拘束していたので、彼が風邪をひいていないか心配だった。
 でも今の所体調は崩していないようで、本当に良かった。ここ最近はあまり寝られていなかったので、あんなにぐっすり眠ってしまって申し訳なかった。

「可愛い寝顔をたっぷり見たから、かえって元気が出た。」

 ケイがそんな事を言うので、「なっ……」と驚きが口から出る。
 そんな私にケイは「チョッロ。」などと言って、いつものように笑い飛ばした。

「……ありがとう、ケイ。」

 壊れそうな私の心を、ずっと支えてくれて。
 眠れない私を、優しく寝かしつけてくれて。
 不安な久しぶりの登校を、一緒に歩いてくれて。
 ケイがいなければ、私は多分耐えられなかった。

「お礼はもう貰ってる。お前、昨日寝ぼけてキスしてくれたからな。」

 「ちょっ……」と、また口から気恥ずかしさが溢れる。
 はっきりと覚えている、目の前にいた彼が愛おしくて愛おしくて、思わず頬にキスしてしまった事を。

「言わないでよぉ!そのせいでまた寝られなかったんだから!」

 そんな私の反応を見て、ケラケラと笑うケイは、ゆっくりと学校の方へと歩き出した。
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